Letter Box No. 9


Letters 「境界と越境」

目次

Letter 081 
Letter 082 
Letter 083 
Letter 084 
Letter 085 
Letter 086 
Letter 087 
Letter 088 
Letter 089 
Letter 090 


Letter 081 まだ風邪が・・・
2001年10月24日 16:41
菅井様
 まだ、本調子でないのですが、館には、先週の19日から出ています。頭痛の風邪から、咳の出る風邪に変わりました。少し溜まっている菅井さんへのメールを書きます。
 まずは、用件から、餅田さんからの手紙は、菅井さん宛てですので、また未開封です。中身は不明です。今度来られてたときのお楽しみに取っておきましょう。来館は、別に急ぎませんので、菅井の都合のいい時でいいですよ。
 さて、このメールは、2001年10月12日 22:05付けの「好き/嫌い」への返事です。
 覚えておられないかもしれませんが、以下のような議論をしました。
 私が「根源的感情」という表現を使ったのですが、「感情というものは、元来根源的なものではないでしょうか?」と、菅井さんはいわれます。「説明がつかないような複雑な感情を非根源的な感情と」考えられるかもしれませんが、菅井さんは、「複雑な感情」も、「自然と沸き起こってきた感情である以上、根源的のように思います。」といいます。
 それと、私が、菅井さんにも嫌いなものがあるはずといったら、菅井さんもそれを認めて、「私の中にも、「嫌い」という感情はあるかもしれない」といわれています。それは、私の挙げた例ではなく、「生理的に拒絶反応を起こしてしまうような「態度」」で、「甘え」や「年長男性に限った拒絶」、「敬語」などを挙げられています。
 これに関しては、他人がとやかく言う筋合いのものではありません。ただ、私は、他人に対しては、敬語をや丁寧語を、時と場合に応じて使うのは、常識だと考えています。逆に目上の人に対しては、使わないと失礼であると思うので、使っています。もちろん、菅井さんにも、丁寧語でメールは書いています。
 私が、感情のありようとして、好悪の間として「普通」というものがあるといったら、菅井さんは「普段よりも気を使わずに、一言もしゃべらなくても平気な相手が、おそらく「普通」」で、「私にとって、「普通」に感じる人はまず少な」く、「どんなに親しくても、尊敬していても、誰かといて気が抜ける」ことがなそうですね。
 私にはなかなか理解できない部分ですね。別に心理学やカウンセリングするつもりはないので、ここでは深く追求することはしません。歳とともに、変わることもあるし、変わらないこともあるでしょう。でも、それは、個人の判断、心の問題です。変わりたければ、努力すればいいし、変わりたくなければ、今のまま押し通せばいいのです。冷たいようですが、それが、心に関しては、最終的な方法です。
 やはり、今日は、頭がなかなか回りません。ここしばらく、文部科学省の科学研究費の申請書類を書いてました。その疲れと風邪のせいでしょうか。申請書では、EPACSから次のステップに繋がるものを考えています。どのようにEPACSを解消し、何を新たにつくり上げるかという構想を考えています。それは、また、別の機会にしましょう。
 それより言わずもがなのことかもしれませんが、卒論頑張って下さい。そして、文学あるいは山頭火、朔太郎と地質学(あるいは自然科学、自然史)についての論文を期待しています。多分、私たちのように地質学にどっぷりと浸っている人間には、思いつかないことが、今までのClubGeoとの付き合いから、菅井さんの頭には去来していることでしょう。そのような、菅井さんが感じたもろもろを、他の人にわかるように書いて下さい。それは、地質学あるいは科学と芸術の狭間への、大いなる貢献になると思います。期待しています。
 今日はここまでにします。少し疲れました。
 ではまた。
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Letter 082 近況など・・さして重要ではないです
2001年10月21日 23:10
小出良幸さま
 ひどい風邪をひかれたそうで、、大丈夫ですか?
 と言いつつ、私は心の中で「やっぱり!」と叫んでいます。お子さんが風邪をひかれて、奥様にうつって、その後は小出さん自身がひく・・小出家のパターンですね。15日頃、「もしかして!」と思ったのが的中しました。人の不幸を予測するのは、不幸中の人間にとって厭味になりますが、あたってしまいました。
 加えて、家のコンピュータが壊れた話を18日のHPで読みましたが、直られましたか?いろんな不調が重なられているようで、大変ですね。でも、不調とか不幸というものは重なりやすいもののようですね。家では、ここ1年の間に洗濯機・掃除機・風呂釜・ガス台が壊れ、今度は電子レンジの接触がおかしくなってきています。
 忙しい最中、また本調子でない中、「地球のつぶやき2」を下さって有難うございました。読みました。そして、お父様の柩の後ろでうなだれる小出さんを思いました。その時考えたことは、今度にしましょう。
 今、私は卒論の資料をうずたかく積み上げ、じたばたしています。後1ヵ月半で卒論を書き上げねばなりません。卒論を書き上げたら、思いっきり遊ぶ予定を一つ入れました。その為にも、精一杯やってみようと思います。1月に書く予定もありますし!
 「餅田さんの知り合いから、私気付けで、例の書が届いています。」とのことですが、熊谷南峰さんからでしょうか。12日の朝方に餅田さんから来たメールに、意気揚揚と「南峰さんに山頭火を書いてもらうようにしっかり頼んだ!」とありました。そのことでしょうか?なんだかドキドキしています。言葉にならない気持ちです。楽しみです。
 では、また。
    菅井美里
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Letter 083 おはようございます
MISATO SUGAI <k985082@keisen.ac.jp>
2001年10月25日 12:59
小出良幸さま
 ただいま情報科学2の授業中です。
 指定のHTMLを作り終わったのでちょっと一息しています。
 具合はいかがですか?まだ頭が痛みます?
 先ほど観察会に行かない旨お伝えしましたが、博物館へ行くのもちょっと先になると思います。餅田さんからの手紙&南峰さんからの書、それまで保管お願いします。
 昨日また餅田さんからメールがきました。
 どうも、私が博物館へ行ったときに突然渡して、驚かせたかったようです。そのようなこと書いてありましたか?「ちょっとがっかり」なさっているみたいでしたが、「なんて悪気の無い人だろう」と小出さんのことを評していました。
 時は過ぎ、昼休み。
 何かと忙しいこのごろ、そんなに急かなくていいですよ。メールの返信。
 卒論のほうは順調とは言いがたいですが、それなりにできるかもしれないと思い始めています。たいしたものは出来ないでしょう。先進的な試みも出てこないでしょう。でも、あの解りにくく、難しく、現代の若者がすすんで読むとも思えない萩原朔太郎の作品に、近頃ようやく向かい合えている気がします。
 小出さんは、私が朔太郎を嫌いだと思われているでしょう。が、違います。あの人の思考は青春そのもので、20を過ぎたばかりの私にさえ、わかります。ただ、使っている言葉が、異様に難しいのが難点。また、評する人の言も大概小難しい。
 三好達治という人をご存知かと思いますが、彼は朔太郎の詩集『氷島』を「理解できない」「無意味だ」と評しています。達治は朔太郎を先生と呼び敬愛し、朔太郎もまた達治のことを理解しようと勤めていたようですが、結局は「人生観の相違」におわってしまいます。おかげで、『氷島』の評価は良悪極端に別れているのが現状のようです。ことの発端は、もちろん達治ですが。
 長くなってしまいましたね。でも、これで今日は終わりです。
 これから、韓国での研究休暇から帰ってこられた大好きな詩の先生の授業です。4時限目には私の苦手な右寄りの先生による特別活動の研究もあります。(本当は古典の授業に出たい。それくらい4時限目の授業は苦痛です。)
 では、風邪がはやく治りますように。
   菅井美里
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Letter 084 科学と芸術
2001年10月25日 15:54
菅井様
 授業合間のメールありがとう。
 まだ、正常とはいいがたいのですが、一応、前向きに仕事はしています。いまは、咳の止まらない風邪に変わっています。ひたすら体力温存です。早寝に心がけています。子供も咳をしているので、ちょうどいいようです。
 「私が朔太郎を嫌いだと思われているでしょう。」といいますが、菅井さんは、朔太郎が好きだと思っていますよ。ただ、山頭火が一番好きということも。
 でも、私は、純文学と離れて久しいですね。中学校時代から読み始めて、高校から大学時代が一番読みましたね。いろいろ読んできました。森鴎外、幸田露伴、田山花袋、夏目漱石、志賀直哉、山本有三、太宰治、芥川龍之介、三島由紀夫、川端康成、北杜夫など文学全集にのっているような小説を順番に読んでいきました。ところが、阿部公房を読んで挫折しました。確か「箱男」だったと思います。なぜ、こんなものが面白いのだろう。理解できませんでした。それ以降、しばらく、純文学から離れていました。
 いわゆる大衆小説やエッセイ、評論などに移行しました。その後、児童小説に一時凝ったことがありますが、今は、SFやミステリーは読みますが、あとは、ノンフィクション科学書が多いですね。今は、数学の本「オイラーの贈りもの」を読んでいます。
 でも、文学というのは、前にも言ったかもしれませんが、科学とは、やはり違います。科学の奥義を理解するには、例えば相対性理論を理解するには、数学や物理の基礎を学び、そこからだんだんと高度の学問体系を理解してやっと、アインシュタインの一次文献に接することができます。一方、文学や芸術は、最初から一次文献(作品)に接することができます。それをどの程度理解できるかは、作品を鑑賞する人それぞれの、理解があっていいわけです。一次文献へのアプローチのプロセスが、芸術の科学の一番の違いのような気がします。
 面白いといえば、面白いのですが、これが、科学と芸術の大きな違いです。
 経済学や社会学、心理学、文芸評論(?)など、人文系の多くの社会科学も自然科学と同じで、積み上げの後に、一次文献が理解できるというものではないでしょうか。そういう意味では、自然科学と人文科学には差がないということかもしれません。
 頭がボーとしています。少しまとまりつきません。
 ではまた。
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Letter 085 おげんきですか?+しつもん
[Clubgeo 301] より転載
2001年11月27日 16:46
皆さま
 お久しぶりです、お元気ですか?
 卒論締め切りを来月に控え、まだ書き途中で、まとまってもいませんが、とりあえず規定枚数は越えられました。そこで(?)、皆さんに一つ聞いてみたいことがあります。よろしかったら、以下をお読みになって、答えてください。
\\\\\\\\\\\\\\\\\\
 過去は寂寥の谷に連なり
 未来は絶望の岸に向かへり。
 砂礫のごとき人生かな!
 われ既に勇気おとろへ
 暗澹として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
「帰郷」という、萩原朔太郎(昭和6年、『氷島』)の詩の一節です。「寂寥の谷」・「絶望の岸」・「砂礫のごとき人生」荒れ果てた大地に自分を重ねているようですが、彼が向かおうとしているのは「利根川の岸」です。彼は妻と別れ、故郷に帰る途中の汽車の中で、絶望に暮れる自分の心を「利根川の岸」のイメージに乗せて詠(うた)っているのだと思われます。もしくは、自分の心に合うように風景を変容させて(変えて)しまっているのだと思います。
 しかし、私が思い浮かべる日本の風景の中に、このような痛々しい土地はありませんでした。日本で、肌をあらわにした谷や岸を見ても、堂々とした力強さは感じても、「寂寥」「絶望」を感じたことはなかったんです。どんなに気が沈んでいる時でも、悲観的な自然は、日本にはあまりないものだと思っていました。(テレビでよく見るアメリカの西部やオーストラリアなら、荒れ果て、渇いた感じを思うことはありましたが。)
 とはいえ、これは今の私の「日本の風景イメージ」です。
で、質問は以下の二つです。
●皆さんの「日本の風景イメージ」に、「帰郷」にあるような渇いた大地のイメージを持った土地がありますか?もしあったらどこですか?
●「帰郷」にあるような大地のイメージを感じる場所は他にどこかありますか?(場所は日本に限りません。)
 ご回答を卒論に使うということはありませんので、チョット思い浮かべてみてくださ
い。(「帰郷」は卒論対象に入っていません。)
 ジャンボブック替えには出れませんが、「砂礫のごとき人生かな!」という詩句に、ああそういう言い方もあるなあと思いました。何の役にもたたない、つまらないもの・・・そんなイメージが、砂粒や石ころにはあります。(例えば、差別用語の「石女(うまずめ)」とか)「砂礫のごとき人生かな!」と叫ばずにはいられなかった彼の気持ちはわかりますが、一方で、その気持ちを代弁する「砂礫」を可哀想に感じてしまいました。博物館の砂粒愛好会、否「Sand Club」の影響でしょうか。それとも、単に奇人なだけでしょうか・・・。
 以上!早く卒論を終えてのんびりしたいです。。。
  スガイミサト
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Letter 086 容赦しない!?
[Clubgeo 302][Clubgeo 303]より
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 平田 大二 <hirata@pat-net.ne.jp>
2001年11月28日 9:05
菅井さん、皆さま
 平田@神奈川県博です。
 またまた、面白い質問をされましたね。帰りの電車の中で考えてみました。
> とはいえ、これは今の私の「日本の風景イメージ」です。
> で、質問は以下の二つです。
> ●皆さんの「日本の風景イメージ」に、「帰郷」にあるような渇いた大地のイメージを持った土地がありますか?もしあったらどこですか?
> ●「帰郷」にあるような大地のイメージを感じる場所は他にどこかありますか?(場所は日本に限りません。)
(質問についての回答)
 萩原朔太郎は、失意の中で「利根川の岸」を思い浮かべたのでしょうか。ある土地についてのイメージは、個々人の感性によりとらえ方が異なるような気がします。また、個人でも、その時の精神状態によっても異なる気がします。
 「渇いた大地のイメージ」というのは、どのようなものなのでしょうか。物理的なものなのか、精神的なものなのか。思うに、多分に精神的なものではないでしょうか。とすれば、私にとっての渇いた大地のイメージは、高層ビルが立ち並ぶ大都会です。どうも人間の活動が一番渇いていて、荒涼としていることが多いように思えます。
 仕事で国内外のいろいろなところに行きましたが、渇いた大地というイメージをもったことはありません。アメリカ、カナダ、グリーンランド、ヨーロッパ、オーストラリア、チリ、アルゼンチン、中国などにいきましたが、どこも現地の自然に感動して帰ってきました。それは、私が目的をもっていってきたせいでしょうか。ただし、その場に住んでいる人たちの生活をみたときは、考えさせられる場面も多々ありました。
 萩原朔太郎の詩も読んだことないので、少し的外れな回答になってしまったかもしれません。その点はご容赦を。とりあえず、返事まで。
 では、また。
2001.11.28
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Misato Sugai <santouka@crest.ocn.ne.jp>
2001年11月28日 20:21
平田大二さま
 平田さん、有難うございます。回答を頂いたのですが、少しだけ補足と意見を申します。久しぶりの中長メールです。深呼吸してどうぞ。
_______________________
●「渇いた大地のイメージ」というのは、どのようなものなのでしょうか。物理的なも
のなのか、精神的なものなのか。思うに、多分に精神的なものではないでしょうか。
 物理的なものと精神的なものの両面だと思います。もう少し対立項をはっきりさせて言えば、「肉体・物/精神」の狭間に、両者の共有するものが見えたとき、人はそのものと共にあることを認識するんだと思います。
 例えば、ひび割れた地面を見て、孤独で心が渇いている人は即座に「私の心はひび割れた大地だ」と思うでしょう。極端な人は自分が「ひび割れた大地」そのものに化して、「このひび割れた地面を誰が潤してくれようぞ」なんて言うかも知れません。そして、そんな心の乾いた人も、側に生える草を見て、まだ生きる術(すべ)は自らの内にあるかもしれぬ・・と感じるかもしれません。
 自然と人(自分)との共通する部分に目が向いた時に、人は自然を自分と同じように感じうるのだと思います。でも、どんな時でも、本当は自分と同じように感じられるんだと思います。他を感じることに積極的であれば。でも、欧米型の(?)自分をはっきり主張することをよしとする社会では、そのような生きかたを通しているだけでは生きにくいでしょう。だから、自分が特に感傷的になっているときだけ、世の中のいろんな物や現象を自分に重ね合わせてみるのではないでしょうか。「多分に精神的なもの」になってしまうのは、そういった背景があるような気がします。
 「いたわる」「思いやる」「大切に思う」・・・日本人は、外国の人に比べて、自己アピールが下手だとか、あいまいだと言われますが、本当は、自分以外のモノや人の気持ちを察する・感じ思いやる文化を持っていると思います。そして、それはとっても素敵なことだと思います。
_______________________
●萩原朔太郎の詩も読んだことないので、少し的外れな回答になってしまったかもしれません。
 朔太郎の詩を読んだことがないから云々というのは、文学はもちろん芸術に対する大きな間違いだと思います。学問の弊害かもしれません。芸術と言われるものは、どんな人でも、享受することが可能なものです。作者が誰であるか、どんな事実を元に作られているのか、どんなテクニックが使われているのか・・・そんなことは、どうでもいいことです。そこにある作品を観て、感じた、それが芸術を享受したということでしょう?
 国語の授業で、「作者はなにが言いたいのか」なんて問いをかけることがありますが、そんなことは、誰にもわかりません。(要約なら出来ますが。)作者にさえ、わからないものです。出来上がった作品は、作者の手を離れたとき、一つの作品として世に出て、享受されます。作者が思っていたことよりも、もっといろんな「読み」を可能にします。それが、文学・芸術の面白さです。「ある土地についてのイメージは、個々人の感性によりとらえ方が異なるような気がします。また、個人でも、その時の精神状態によっても異なる気がします。」――平田さん、初めからわかっているのに、末筆にそんなこと仰らないで下さーい。
_______________________
 前半は言葉にしにくくて、後半は言葉足らずで・・それこそ的外れな感じですが、平田さんに頂いた回答に関しては、後ほど改めて、メールします。
  菅井美里
○後記○
 時として、自分を観照的に眺める手助けをしてくれるのが、自分以外のものではないでしょうか。今までの自分から一皮向けたり、新しい自分・別の自分を発見したりすることがありますが、それは、モトモトその人の中にあったものです。自分を再発見するためには、ギリギリまで煮詰まって、もがいている状態であることとフト目を上げたときに転換を助けてくれるようなものとの出会いの両方が必要に思います。だから、環境(自分以外の全てのもの)って大切ですよね。 オワリ
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[Clubgeo 305] Re: [Clubgeo 303] 容赦しない!?
平田 大二 <hirata@pat-net.ne.jp>
2001年11月29日 19:11
菅井さん
平田@神奈川県博です。
 またもや、容赦のない(!?)ご意見をいただいてしまい、恐れおののいています。いろいろと反論したいのですが、今はちょっと時間がないので(あるいは,更なる反論を恐れて)良く考えてから、再度返事します。
 一言だけ。作品を読んでなくても感想や意見はできるものなのでしょうか?菅井さんの意見の後段の部分は、素直に納得できていません。
 だって、作者と作品ができた背景を書いたのは、菅井さんですから。
 などと、書いてしまうと、百倍になってか帰ってきそうなので、止めておきます。
 では、また。
2001.11.29
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Letter 087 プラスイメージで
2001年12月1日 8:23
菅井様、皆様
 ご無沙汰しています。小生、一身上の変化があり、少しClubGeoは沈黙していました。しかし、メールは当然ながら読んでいました。
 菅井さんと平田さんのメール面白く読ませていただきました。
 「萩原朔太郎の詩も読んだことないので、少し的外れな回答になってしまったかもしれません。」という平田さんに対し、菅井さんは「そこにある作品を観て、感じた、それが芸術を享受したということでしょう?」と答えました。まさにそのとおりだと思います。だから、私の上の以下の回答もありだし、平田さんの「渇いた大地のイメージは、高層ビルが立ち並ぶ大都会」もありだし、菅井さんの「堂々とした力強さは感じても、「寂寥」「絶望」を感じたことはなかった」もありです。
 だから、朔太郎を読んだことがないからという記述に関する平田さんと菅井さんのやり取り。この勝負、平田さんの負けです。

 では、菅井さんの質問に対して私の番です。
【皆さんの「日本の風景イメージ」に、「帰郷」にあるような渇いた大地のイメージを持った土地がありますか?もしあったらどこですか?】
回答:なし、です。
【「帰郷」にあるような大地のイメージを感じる場所は他にどこかありますか?(場所は日本に限りません。)】
回答:これも、なし、です。

 以上が、私の答えです。これでは、身も蓋もないので、すこし、感想を。
 こんな詩は、嫌いです。全体を見ていたので誤解があるかもしれませんが、全体も読みたくないですね。自分の負(マイナス)の状態やイメージを、他人に押し付けるようで嫌です。押し付けてないのかもしれませんが、それを世に出すことは、他人の目に触れることが前提です。だから、他人に見せることを意識してこのような負のイメージの放出をすることは嫌いです。だから、このようなタイプの詩の存在は否定しませんし、否定する筋合いでもないですが、このような負のイメージの放出は嫌いです。
 朔太郎は昔読んだ気がしますが、やはり、暗いイメージでなじめませんでした。ましてこの詩は、自分自身のですが過去や未来まで、負のイメージで塗りつくしています。まして、その負のイメージを砂礫で飾っています。菅井さんや私が、正のイメージで創ろうとしている砂をそのイメージに重ねているのは許せません。私にとって砂礫は、興味の対象であって、慈しむべきものであり、つまり正(プラス)のもので、それを広く市民に伝えたいと思っています。今度のジャンボブックや、連続講座をみれば、砂が、こんなに多弁な存在で、こんなにきれいで、こんなにも陽気であることがわかるはずです。
 私も、「孤独で心が渇いている人は即座に「私の心はひび割れた大地だ」と思う(菅井メールより)」ときがあります。でも、私は、それを朔太郎のように他人にそのまま放出するしたくはありません。なんとか正にしたい、正にするために頑張ることを目指すことを見せたいと思います。私は、自分がどんなに負の状態であろうとも、正の夢や目標に向かって生きていきたいのです。それが、自分の生きる力や目標となり、そしてこれからもガンバローという原動力になるからです。生きる力は、正のイメージからしか生まれないのではないでしょうか。少なくとも私はそうです。だから、この詩は嫌いです。
 以上です。

前田君に一言。
 頑張れとは言いません。頑張っているがどうかは、他人にはわからず、自分の心の中にしかありません。今がどんなに苦しくても、どんな未来になろうとも、自分の心が正(プラス)をめざし、正であると考えることができれば、そこは、自分にとって良いところです。ただし、その良いところに甘んじることなく、更なる正を目指すこと、それが「生きる醍醐味」です。大いに生をエンジョイしてください。

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Letter 088 へんしーん!
2001年11月25日 13:51
小出良幸さま
 お久しぶりです、お元気ですか?お変わりないですか?随分博物館関係の皆さんにお会いしていないような気がします。ほんの2ヶ月チョットが2〜3年に感じます。
 ジャンボブックも講座も行きたい気持ちはヤマヤマですが、やはり卒論が終わりません。年内で行けそうなのは卒論の提出が終わってから・・・なので、12月18日以降になります。すると、22・23日の講座には出れると思います。その時に「書」を戴いてもいいですか?
 小出さんが風邪をひかれた10月の後半からはや1ヵ月半、飛ぶように過ぎてしまいました。白状すると、この1ヵ月半の間に、6〜7回小出さん宛てのメールを打ちました。ClubGeo宛ても含めるともう少しありますが。でも、こんなことをしている場合じゃない!と思って、送るのをやめました。
 卒論を書きながら、当為と現実の狭間で、意志が喪失していく怖さを感じています。提出できるか否かは別として、卒論の提出日が終わったら、魂抜けるだろうなあ、と思っています。今度お会いする時は、崩された積み木になっているかもしれませんね。土台が脆いから崩れて当然なんですけれど。卒論の内容は、朔太郎最後の詩集『氷島』の視覚的イメージとひらがな表記にまとめる予定です。国文学より国語学(日本語学)の方が主になってしまいそうですが、扱っているのが文学作品なので、教官もだまされているようです。
 11月最終週(来週)までに、全体をまとめて最後の指示を頂く予定です。まだまだです。
【連絡2件(重要)】を読みましたが、小出さんも歳末に向けてお仕事量が増加しているようですね。再び歳末風邪をひかないように、ゆっくり急いでください。先日泊まりに来た祖父と従弟の風邪がうつったらしく、私は今咽喉がガラガラです。
では!
   菅井美里
P.S.
・「へんしーん!」は掛詞です。
・ここ1ヶ月ほど、コンピュータの調子が思わしくないようです。すぐに固まってしまいます。1日3回位。Cは13Gも空いているんですが・・・。上手く対処する方法ナイデスカ?今は固まったら強制終了しています。
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Letter 089 てんしーん!
2001年12月1日 9:18
菅井様
 ご無沙汰しております。
 もちろんこのメールのタイトル「てんしーん!」は、菅井さんの「へんしーん!」に対する掛詞と、以下の内容で明らかにされることへも掛けています。しゃれを説明するなんて、下の下ですね。
 ということで、これは、菅井さんの「へんしーん!」に対する返事です。
 まず、事務的な連絡ですが、コンピュータが調子が悪いとのことですが、大切なデータはフロッピーにバックアップとるように。卒論はもちろんです。私は、データ量が多いのでMOというのを使っていますが、データが一番大切です。もし多いなファイルでフロッピー1枚に納まらなければ、文章をいくつかに分ければいいのです。あるいは、Wordで文章をつくっていると思いますが、Wordから新規保存でテキスト形式で保存すれば、コンパクトにできます。あるいは、ホームページにそのまま転送して保存しておく手もあります。私はMOを3枚用意して、1日が終わるごとにMOを交換しながらバックアップしています。つまり3日前のバックマップまで、もどれます。もし、コンピュータに何かあっても、フロッピーがあれば、最悪でも1日のロスで済むし、コンピュータとフロッピーになにかあっても(起こりうることです)、2日のロスですむのです。これで、私は何度か命拾いをしています。いずれにしても、万難を排してデータを守ることです。菅井さんも気をつけてください。
 さて、重要な用件です。「てんしーん!」です。
 一昨日、博物館でも公になりました。私は、2002年3月末で、博物館を退職します。そして4月以降は、札幌学院大学に教授として転出します。あまりまだ外部にはしゃべっていません。EPACSで知っているのは、杉之間さんと菅井さんだけです。そのうちじわじわと公になると思いますが、主だった人には私から伝えるようにしています。
 多くの人がショックを受けています。特に博物館の地学の学芸員はショックでしょう。実は、ショックを与えるのも、転進の理由の一つなのです。その理由は話すと長くなるので、現在、文章を用意しています。実は文章は少し前に書いたのですが、まだ、十分推敲していません。近々公表します。
 そして、多分、今後のEPACSやClubGeoについて気になっていると思います。
 私は博物館からはいなくなりますが、今まで通り活動は続けます。ただし、EPACSは来年の夏の特別展とシンポジュウムをもって、当初の予定通り解散です。データベースについては、テックネットのサーバに残します。ただし、今後のテクネットとPACGeoとの関係と、テクネットと私の関係は現在どうするか検討中で、テクノリサーチの考え待ちです。これは、テクノリサーチの今後の経営方針とも重大なかかわりがあることなので、杉之間さんも慎重に現在検討中です。
 ClubGeoも、もちろん今まで通り活動します。なにせ10年計画のまだ丸2年しか経ってないのです。1月の大島行きも、3月の中国行きも、順調に準備が進んでいます。それに、私が札幌に行くので、来年夏の巡検は、北海道の選択肢も出てきました。
 それと、私と菅井さんの関係もできれば、今まで通り続けていきたいと考えています。おもな連絡は、今まで通りメールが中心です。
 次のメール「Break Through」については、次回です。

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Letter 090 Break Through
2001年11月30日 23:10
小出良幸さま
 お元気ですか?
 このメールはちょっとしたことしか書いてありませんので、気が向いた時にお読みください。
___________________
 HP拝見しました。
 「忙しいと口にすることは、忙しさに負けたのを表明していること」とありましたが、そのとおりだと思います。
 昔、母が私に「忙しいって、心を亡くすって書くでしょ。」って言ったことがあります。母は、誰かから「今忙しい?」と聞かれても、「そんなことないよ」と必ず言います。それは、忙しさに負けたくないのかもしれませんが、それ以上に、心を亡くしたくないんだろうと思います。
 私も母の子ですから、「忙しい」という言葉は好きではありません。「忙しい?」と人に言うのも、本当は好きではありません。落ち込んでいる時に社交辞令のように、「忙しい?」と声をかけている自分に気付いた時、自己嫌悪に陥ります。もちろん、「私は今忙しい」と言うことはないし、思いません。ただ、手際が悪いからだと思っています。
___________________
 雅子さまがご出産なさるというニュースが聞こえてきました。宮内庁病院に笑顔で向かわれる映像が映っています。
 涙が出てきました。特別番組が組まれているのは癪に障りますが、無事ご出産なさってほしいと思います。秋篠宮さまがお誕生日の記者会見で、母子共に健康で会って初めて喜べると仰っていました。本当にそのとおりですね。みんなの「がんばって」という気持ちは雅子さまにはとても重いに違いありませんが、応援はしたいです。きっと明日、朗報が聞けることを祈って、今日は床につきます。
   菅井美里

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