Letter Box No. 8


Letters

目次

Letter 071
Letter 072 
Letter 073 
Letter 074 
Letter 075 
Letter 076 
Letter 077 
Letter 078 
Letter 079 
Letter 080 


Letter 071 岩石学入門2
2001年10月5日 17:09
菅井さんおよび皆様
 あっという間に10日ほどが過ぎ、10月も早5日になってしまいました。その間、小出家は、あいも変わらず、ばたばたしておりました。家内がおたふく風邪、長男が首の筋を違えて外科に行き大泣きの内に治療、直ったかなと思ったら、今日も痛がり、なおかつ吐いたので風邪です。おたふく風邪でなければいいのですが。今日で、家内も10日振りにおたふく風邪から復帰し、外出可能になりました。私は、この1週間、1時間遅刻および1時間早退で、ほとんどゆっくり時間が取れませんでした。
 菅井さんから小出宛に、長大なる質問状がきました。それに対する、答えを公開の場でします。菅井さんのメールを許可をもらって転送しました。これも、私流の地質学教育のつもりです。
 菅井さんの質問状には、3つの質問と「考える材料収集です。質問とも仮説ともまとまらぬ、頭の中に浮んだいろんな事」の3つのあわせて、6つの質問がありました。

質問1. 本源マグマがある。その種類には「玄武岩質」や「安山岩質」のものがある。(他にもあるのでしょうか?)
回答1. これは本源マグマとは何かという質問です。
 本源マグマとは、もともと火成岩の多様性を、マグマから結晶が抜け去ってマグマの化学組成が変化するという仕組み(結晶分化という)で考えたとき、一番の基となるマグマのことです。1種の本源マグマからすべての火成岩の多様性ができれば、めでたし、めでたし、なのですが、自然界はそう甘くもなく、単純でもないのです。
 一つのマグマからできた一連の火成岩(岩石系列)には、いくつかのでき方の違いあることが明らかになってきました。アルカリ岩系列、ソレアイト系列、カルクアルカリ岩系列などが主なものとしてあります。さらに詳しく見ると、もっと岩石系列が見分けられています。
 各岩系列の本源マグマは、一般には玄武岩質マグマですが、もしかすると、玄武岩質マグマ以外のものがあるかも知れません。たとえば、カルクアルカリ岩系列は安山岩質マグマが本源マグマだという人もいます。まだ、決着はみていません。
 しかし、大切なことは、地球の至るとこにある似たような火成岩が、ほんの数個の本源マグマからできているのです。こんな不思議なことがあるのです。地球は多様に見えるかもしれませんが、実はその奥底には単純な仕組みが隠されているかもしれないのです。不思議でしょう。

質問2. 「本源マグマ」がマグマ溜りのところまで上がってきた段階で、「結晶が取られたマグマ(A)」がある。冷め方によって、「玄武岩質」「安山岩質」「ソレアイト質(石英安山岩質のこと?)」「流紋岩質」と変化する。
回答2. これは、火山岩とマグマの分化の問題です。
 まず、ソレアイト質について誤解があります。ソレアイト質とは、マグマの岩石系列につけられた名前です。アルカリ岩質と対等です。ですから、アルカリ岩質の玄武岩から流紋岩までありますし、ソレアイト質の玄武岩から流紋岩まで、カルカアルカリ質の玄武岩から流紋岩まであります。
 さで、本源マグマは何でもいいです。ある玄武岩質マグマ、ありきです。玄武岩質マグマからは、珪酸(SiO2)が少なく、Mg−Feの多い鉱物(苦鉄質鉱物あるいはmafic(マフィック)鉱物といいます)が最初に結晶します。このような結晶には、カンラン石ついで輝石(斜方輝石、単斜輝石の2種類あります)です。また、苦鉄質個物でも、固溶体なので、FeよりMgの多いものが先に出ます。このような苦鉄質鉱物がマグマから抜き去られると、マグマにはSiO2が多くなり、Mgが減っていきます。Feはちょっと微妙で、鉱物の成分と、もとのマグマの組成によって、増えることも減ることもあります。増える性質のマグマをカルクアリカリ岩、減る性質のマグマをソレアイトといます。カルクアリカリ岩とソレアイトの特徴は、これだけではありませんが、これも重要な特徴です。
 さて、たくさんの苦鉄質鉱物が結晶として取り除かれると、マグマは玄武岩質から安山岩質へと変化していきます。このときマグマの組成と共に、マグマの温度も下がります。マグマから結晶が出るときは、潜熱の放出で、温度低下をせずに結晶化だけが進みます。ですから、マグマの組成が変化し、晶出している結晶の組み合わせが変わると、温度の低下していきます。つまり、玄武岩質マグマが一番高温で、安山岩質、デイサイト質、流紋岩質へと温度も低い方へ変化していきます。
 苦鉄質鉱物のほかに斜長石が結晶化をはじめます。斜長石は、Ca−Naの固溶体(本当はNaSi−CaAlの交換)です。最初は、Caの多い斜長石から、連続的にNaの多い斜長石へと組成は変化していきます。
 そして、やがて、結晶に入りにくくマグマに残りやすい元素(液相濃集元素)が濃集していくと、アルカリ長石や石英などが晶出してきます。それは、デイサイトや流紋岩の特徴となります。そして、温度も低くなり、もはやマグマつまり溶けた岩石ではいれないほどの低温になって、マグマはすべて固化します。つまり、岩石となります。
 このようなマグマの結晶化の仕組みの原則は、熱力学的にほぼ解かれ、実験で検証され、天然の岩石でも同じ現象が発見され、その実体は、ほぼ解明されています。ただし、原則です。
 当然、例外はあります。玄武岩質マグマの代表である海洋底をつくる中央海嶺玄武岩(Mid-oceanic Ridge Basalt、約してMORBといいます。大磯の枕状溶岩はこの可能性があったのですが、現在は素性は不明です。余談でした)は、多くの場合、カンラン石が最初に晶出する結晶なのですが、マグマの組成によって、斜長石から始まることがあります。自然とは、原則がありながら、それからはずれるものもあるという不思議なものです。でも、そこから新たな展開もあります。面白いと思いますか、それとも複雑でわかりませんか。

質問3. ゆっくり冷え固まるマグマの場合、完全に冷え固まるまでの間に「さらに結晶が取られたマグマ(B)」へと変化してゆく。その結果、斑レイ岩・閃緑岩・花崗岩が生成される。
合ってますか?(付け足した所も含めて)
回答3. これは、深成岩と火山岩の違いの問題です。
 上の質問の解釈は間違っています。深成岩と火山岩は一般に独立して、別々に形成されます。でも、実際には深成岩と火山岩が一連に形成されることもあります。でも、後で述べるように、疎のようなセットがあっても、残っていることが少ないのです。
 玄武岩質マグマから結晶ができたとします。火山岩の場合は、その結晶が取り去られると書きましたが、深成岩の場合は、その「取り去られた結晶」も、深成岩になっていきます。「取り去られた結晶」が下に沈み、集まり、そのままゆっくりと冷えていけば、そこにはカンラン石や輝石に富む岩石(超塩基性岩)ができ、そこに斜長石が加わると斑れい岩になり、斜長石が多くなり角閃石が加われば閃緑岩となります。さらに、石英が出てくると、花崗岩になります。
 マグマの性質によって、出てきた結晶は、沈んだり、浮いたり、そのまま漂ったりします。カンラン石は一般にはマグマの中では沈みます。でも、斜長石は、マグマより比重が小さくなることもあります。そうすると斜長石は、マグマ溜まり天上、つまり上部に濃集します。そのような斜長石だけが濃集したものは、斜長岩と呼ばれます。比較的珍しい石ですが、石材でラブラドライやムーンストーンと呼ばれる石材や飾り石で見かけることもあります。斜長岩は地球では珍しい岩石ですが、月の白っぽいところ、「高地」と呼ばれているところはすべて斜長岩でできています。少し話が脱線しました。
 さて、火山岩と深成岩は、早く冷えたのか、ゆっくり冷えたのか、という冷却速度だけが違うのでしょうか。実は、もっと重要な違いがあります。
 一つは、岩石のマグマの組成の関係です。火山岩はマグマが地表に噴出して急激に冷えたため、マグマ自身の成分がそのまま岩石として「凍結」されています。ですから、火山岩の化学組成は、マグマの化学組成と見なして議論できます。一方、深成岩は、上で述べたような先に晶出した結晶が集まってできた岩石があります。また、マグマがなくなって完全に岩石になる時でも、結晶の間にマグマが残り、やがて固まるというプロセスを経ていきます。ですから、深成岩からマグマの組成を調べるのは、非常にむつかしくなります。深成岩はマグマ溜りの情報を一番良く持っているのですが、マグマ自身の情報はわかりにくくしています。
 もう一つの重要なことは、火山岩には、今日できた岩石だってあります。当然、何億年前の岩石もあります。ところが、深成岩は地下深部でゆっくり冷えていきますので、昨日できた岩石は見ることができません。一般的には、深成岩は上にあった地層や岩石が侵食の作用で削り取られてから、はじめて地表に顔を出します。その時に、一連のマグマの活動でできた火山岩もなくなっていきます。深成岩には、そんなに新しいものはありません。数千万年前のものしか見ることができません。例外的に、日本列島のように大地の変動が激しい地域では、できたばっかりの深成岩が顔を出すことがあります。一番新しい深成岩は、足柄山地の矢倉岳の石英閃緑岩で115万年前のものです。丹沢の深成岩も500万年前くらいの新しいものです。できたてのほやほやの深成岩なのです。

質問4. カンラン石が晶出した後、斜長石や輝石が晶出する。すると、カンラン石だけでなく斜長石・輝石が晶出していることから、カンラン石だけが晶出する状態よりも、この岩石を作ったマグマの温度は低くなっていることがわかるのでは・・・?
回答4. そうです。正解です。その訳は、上の質問1で、答えたとおりです。

質問5. どんなマグマも、地表に噴出するまでの間に徐々に冷やされているのではないか。(なぜ冷やされるか:仮説@マグマの通り道は、岩石である。当然、マグマより温度が低い。ならば、通り道を輪切りにしたとき外側のになるマグマは、冷えやすいはず。仮説A本源マグマのある場所と地表では、地表のほうが温度が低い。本源マグマからマグマが離れれば離れるほど、それは温度の低いほうへマグマが移動することになる。ならば、地表に近づくに従って、マグマの温度は維持されずに低くなっていくのではないか。)
 もし徐々に地表に出るまでの間にマグマ全体が冷えてくるとすれば、地表に出るまでの道程で結晶を取られてくるのでは・・・えっ?もしそうだとしたら、本源マグマそのままの状態のマグマでできた岩石は手に入らないことになる!?・・・あれっ?そうだとしたら、小出さんの仰った「本源マグマから結晶が取られたマグマ」というのは、本源マグマのある場所から離れたマグマすべてに当てはまってしまうの??
回答5. この質問は、マグマの冷める速度についてです。
 マグマが上昇してくる時、当然冷えます。ですから、マグマの通り道(火道(かどう)といいます)やマグマ溜まりの壁は、マグマが急に冷えて岩石になります。このような岩石を急冷縁(きゅうれいえん)といいます。深成岩でも、火山岩のように細粒の岩石が、深成岩の一番外側で見つかることがあります。でも、岩石は、非常に熱伝導率小さい、つまり断熱効果がいいので、一度、急冷縁ができると、中のマグマはそんなに急に冷めることはありません。それは、枕状溶岩でも見ることができます。枕状溶岩は、周りは結晶の見えない急冷縁ですが、中に入るとだんだん大きな結晶になっていきます。つまり、ゆっくりと冷めているのです。
 でも、いくら断熱効果がいいとはいえ、マグマ溜は、ゆっくりとではありますが、冷めます。マグマ溜まりは、大きいほどゆっくりと、小さければ早く冷めていきます。それと、マグマ溜りまで上昇するマグマが多ければ、結晶の晶出が少なく、分化も少なく、より本源マグマに近くなります。火山のマグマ溜まりは、深成岩と比べて小さいので、もはや本源マグマからかなり変化している可能性があります。
 それと、マグマの温度の冷め方ですが、一様ではなく、結晶が出ている限り、温度はそれほど冷めません。上でも言いましたが、玄武岩質マグマからカンラン石が晶出している間は、潜熱を放出するため、それほど冷めません。ただし、固溶体としてカンラン石の組成が変化すると、温度も変化します。このあたりは、どれが一番効くかは、それぞれの条件によって違ってくるはずです。非常に複雑になります。ですから、同じ玄武岩といっても、ところ変われば品変わるで、個性の違いができます。
 温度低下は少ないかもしれませんが、どんなマグマでも、上昇過程で、温度低下は起こるはずです。ですから、本源マグマは、地表で見ることができないのです。でも、急速に上昇してきたマグマでは、カンラン石だけが晶出して、他の鉱物はまだ出ず、そのカラン石も玄武岩に取り込まれた状態で固まることもあります。それは、ピクライトと呼ばれる特殊な岩石です。あるいは、もっと特殊ですが、時速100とか数十キロの非常にすごいスピードで上昇してくるキンバーライトマグマなども、本源マグマといえます。これは山下さんが研究しているマグマです。でも、注意が必要なのは、ピクライトには、多目にカンラン石が付け加わっている可能性もあります。なぜなら、カンラン石はマグマより比重が大きいので、沈みます。ですから、ピクライトは、本源マグマに近いからではなく、カンラン石が濃集した岩石の可能性もあります。ですから、非常に慎重にならなければいけません。
 一般には、多くの火山岩では、カンラン石はどこかで抜けている可能性があります。カンラン石だけなら、抜けたカンラン石を分析した玄武岩の組成に足してやればいいのです。単純な算数で計算できます。どの程度カンラン石を、加えるかが問題ですが、ある種のマントルと一緒にあってもおかしくない程度の組成まで加えればいいのです。このようにして、誰かが、知恵を絞って、考えています。
 カンラン石以外の輝石や長石が混じっているいる岩石は、多分、本源マグマではないであろうと考えるわけです。前にいった本源マグマに関する「秘密」の答えをいってしまいました。

質問6. 大室山(単成火山)が産地であることを加味しなくてもわかることなのだろうか。
回答6. 多分、大丈夫でしょう。何を加味すればいいのでしょうか。何か、意味があるかもしれません。そして、なぜ、東伊豆には単成火山がたくさんあるのでしょうか。なぜ、箱根や富士山のように、一つの大きな火山にならなったのでしょうか。考えてみてください。

 それと、ご存知だと思いますが、インターネットでは、特殊文字(機種依存文字といいます)は、使わないことが、得策です。その特殊と文字とは、@、A、B、、、などです。●、【、[などは可です。

 遅くなりましたが、菅井さんへの答え兼、岩石学入門2でした。


content


Letter 072 後期の授業
2001年9月25日 15:51
小出良幸さま
 お言葉に甘えて(?)、あす(26日)に伺います。古いお土産と新しいお土産計二品を持って。
 今日、履修登録してまいりました。月曜と木曜が授業です。
 取った科目が我ながら面白いです。
 「キリスト教人間学」「女性とキリスト教」「文学とキリスト教」というキリスト教関連三科目に、「情報科学U」でHTMLとXEL(何だかは知りません)を学びます。(その他に教職科目一つと卒論ゼミがあります。)運良く「情報科学U」の抽選に当たったためにコンナ科目構成になったわけですが、後期の目的は、「Cooperate for WORLD PEACE!〜次世代を生きる方法論の検討〜」です。
 私は、世界中の子供がそうであるように、平和な世界をつくるにはどうしたらいいのだろうと考えてきました。幼稚園以来、広島・長崎の原爆の話を聞いたり、小学三年か四年の時、湾岸戦争のテレビ中継を見て、幼いなりに考えました。
 戦争は、国家間・地域間・人種間・・・などでおきますが、戦争の火種は、個人の感情にあると思いました。「あの人が憎い」と思うことです。私は、平和ボケしているのか、生来のものかわかりませんが、生き物やものに対して、苦手と思うことはあっても、「嫌い」「憎い」と思った例がありません。が、なぜそう思うようになるのかは、少しだけわかるような気がします。自分のことばかり考えることや、思うようにいかないと暴走するようココロの持ち方が、いけないのではないかと考えます。すると、国や地域など大きな群れ同士の間に平和に関する対話を設けるだけではなく、もっと小さな単位・個人と、平和を考える場を設け、その方法論を模索していくことのほうが、大切ではないかと思われます。そう、結果的には、平和教育ということになります。大人たちが止められなかった戦争・憎しみを乗り越えられるのは、子供しかないのではないでしょうか。平和をいつも心の片隅で考え、他者を思いやって生きる子供には、もしかしたら戦争や憎しみに勝るチカラがあるかもしれない、といつの頃からか思うようになりました。
 で、その平和教育の方法として、国家・地域・人種等を越えられるのは、宗教かもしれないと考えたのは中学か高校あたりだったでしょうか。が、そんな浅はかな考えはあっという間に消え去りました。因縁の対決を今も続ける、ユダヤ人とキリスト教徒とムスリムの問題があるからです。今は、宗教に世界の平和誘導係を任せることがほぼ不可能であることはわかります。(やはりそういう既存の支えを必要としない、純粋な平和教育ができるといいのではないでしょうか。)ではなぜ、今になって宗教を考えてみることにしたのかというと、宗教を支えとし、それによって争うことになってしまっている人びとが平和を得るためにはどうしたらよいのかを解いてみたいからです。
 さてさて、どうなるかはわかりませんが、後期の授業も楽しそうです。
 文化についてはまた後ほど一稿書く予定です。お待ちください。
 では、また明日!!宜しくお願いします。
 スガイミサト
contentへ


Letter 073 根源的感情
2001年10月8日 10:22
菅井様
 今日は出勤予定ですが、昨日自宅に帰ると、時間が風邪で寝込んでいました。それで、一晩じゅう。30分ごとに、起こされました。明け方、までその状態でしたので、出勤は諦めていたら、7時過ぎには、熱が下がったのか急に元気に遊び始めました。長男も起きて、大丈夫で、博物館にいこうかなと、朝食皆で食べ始めたら、長男が突然、耳の下が痛いと言い出しました。おたふく風邪です。予防接種をしていたんので、大丈夫かなを思ったら、かかったようです。それに、次男は寝不足で、昨日は食事をしないので、ふらふらなのですが、食欲がないようで、ぐずっています。ですから、今日は休みました。
 菅井さんとは、メール交換を、しているようなしてないような、中途半端な状態が続きました。でも、継続中です。まあ、そういうことを気にかけることが、継続中のしるしです。
 さて、いくつかメールをもらいましたが、今回は、「後期の授業」の中で書かれた、戦争と平和についてです。ここでは、あまり議論できません。どう捉えていいのか、まだ私にはわかりません。戦争の原因は、「戦争の火種は、個人の感情にある」という考えですね。
 それについては、異論がありますが、ここでは詳しく述べず、骨子だけにします。その反論の根拠は、以下のものです。菅井さんの論理は「群れの意志は最終的に個の意志の反映」に収斂できると思います。そうすれば、「個の意志は群れの意志となるか」という命題にできます。群れが少数でしたら、個の意志は群れの意志に反映できる可能が高いはずです。しかし、多くなるとそうはいきません。群れには群れの論理があり、多分過半数がこうだと思っても、その方向に進まないことがあります。その論理は、時の流れ、偶然、一部の権力者の意向、などさまざまな要因があはずですが、個々の意志は、群れに反映できるとは限らないということを、最近、私は考えています。民主主義、資本主義、宗教、社会、世論、政治、なども、群れの意志で、その決定権は誰にでもありいは権力者にありそうで、誰も握れない、という状態だと思います。その論理で考えれば、戦争も、個人の感情が火種になるとは限らない、というのが、私の反論の骨子です。でも、ここでは深入りはしません。
 ここで、考えたいのは、戦争と平和というような大きなテーマではなく、個人と個人の関係です。戦争と平和は、私は、今まで、考えたことがありません。トルストイも読んだことがありませんし・・・。そのうち時間があれば考えましょう。ここで、考えたいのは、もっと身近な、個人と個人の関係の中でも、好悪の感情についてです。
 好悪の感情とは、生来から人間にある感情の一部だと思います。ですから好悪は、根源的な感情のはずです。人間にとって、非常に初期からある、もしかしたら猿人、原人以前の時代から持っているような脳の作用ではないでしょうか。そして、もちろんも今も、全ての人が、心の奥底に隠している感情です。あまり、表には出したくない感情です。つまり、誰でも、好きな人や嫌いな人が、できたり、いたり、いたこと、があるはずです。このような根源的感情は、「生き物やものに対して、苦手と思うことはあっても、「嫌い」「憎い」と思った例がありません。」というようなきれいごとではないでしょう。これは、前田君の「嫌いではなく、好きじゃない」という表現を彷彿とさせる、負けず嫌いの表現のような気がします。
 菅井さんは「例がありません」といっていますが、多分感情的に嫌いなものがるはずです。私の少ない経験では、菅井さんの嫌いなものをあげることができます。あえて言いますと、「卒論」、「父親」、「菅井らしさ」、などがすぐに思い浮かびます。それを、菅井さんは、苦手と表現しているのではないですか。別に喧嘩を売っているわけではありませんし、そのような表現がいいとか悪いとかいうことをいってるのではありません。多分、反論がありそうですが、いいたいのはそれではありません。
 いいたいことは、人間には、根源的な感情がある。そして理性的に考えたとき、そのような根源的な感情は、はずかしい。でも、そのような言葉が他人から言われると頭に来る感情的になる、つまり、根源的感情にまですぐにたどり着く。根源的感情とはそのようなものだと思います。
 当然、私にも、そのようなことがたくさんあります。「地球のつぶやきNo.2」で書いたような父の死のときの理性では御しがたい感情、そしてもちろん好悪の感情もあります。名前を挙げませんが、何人かの個人が嫌いです。それは、最初から嫌いではなく、何らかの原因で嫌いになりました。その原因がわかるときもありますし、わからない場合もあります。また、家内と結婚するときは、好きでした。そして、自分の子供は好きです。
 でも、好悪とは、裏返しではなく、中間的なものもあります。それに、あるとき好きであったのが、あるときから嫌いに転じたり、ずっと好きだったのが、ある日を限りに嫌いになったりすることがあります。例えば、結婚するとき、上で述べたように家内は好きでした。でも今は、「好き」というのとは違います。「嫌い」はもちろんありません。限りなく好きに近いのですが、「普通」です。このような感情は、理性ではいかんともしがたい、対処しづらい感情です。
 好きか嫌いかということを、私の例のように、心に素直になれば。計ることはできます。でも、それではいけないと、どちらかに意図的に移すことはできません。だから、「苦手」や「好きではない」、「嫌いではない」などという表現になります。そのなかには、本当に私の家内に対する感情のように、「好きではない」と「嫌いではない」などの中間的なものがあります。ですから、心理的に本能に近いような感情を剥き出しにすることに抵抗があるときは、中間的な感情へとずらして、表現してしまいます。そのような感情の表れを「苦手と思うことはあっても、「嫌い」「憎い」と思った例がありません」という表現から読み取ってしまいました。こんなことは、取り上げてはいけないことの部類に属することかもしれません。でも、今回は取り上げてしまいました。たぶん、私がそのようなことを気にしている心理状態にあるからでしょう。
 根源的感情は、多分、人間が知恵を持つ前からある、本能に近い心の動きなので、これからしばらくは、この感情と人類は付き合わなければいけないはずです。でも、その対処方法は、まだ誰にもわかりません。難しい問題です。
 最後になりましたが、多分、菅井さんから、感情的な反論があると予想します。でも、私くらいの年なると、そのような本能に近い感情を、結構、客観的に表現できるようです。でも、その感情は抑えることはできません。
 げに、心とは、難しいものよ。
 では、また。

contentへ

Letter 074 お元気ですか?
Misato Sugai <santouka@crest.ocn.ne.jp>
2001年10月1日 20:30
小出良幸さま

 お元気ですか?金曜日、調査中止の連絡を家に入れてくださったと聞きました。アイニク家を出た直後だったそうです。また、バスや電車の中では電源を切るタイプの人間なので、母が電話しても通じなかったとのことです。
 明日は再び西小磯調べですが、真夏のようになるそうです。暑いのは大嫌いですが、楽しみです。小出さんは行かれないんですか?
 お子さんがおたふく風邪になったという話までは伺いましたが、その後消息不明なものですから気になってメールしました。
  スガイミサ
contentへ


Letter 075 元気なんですが。
2001年10月2日 6:36
菅井様
 私は元気です。家内がおたふく風邪です。ですから、外出はできません。私が、子供の送り迎え、買い物をしています。博物館への1時間遅刻、1時間早退で勤務しています。博物館での仕事は、実質3時間減っています。そのため、朝方に変えて家出仕事をしてます。
 今日は休日です。でも、子供の運動会なので出なればいけません。別に出なくてもいいのですが、保育園に出るといってしまったのです。
 前回の調査のときは、次男の保育園の運動会でした。でるつもりはありませんでした。でも、長男が、首の筋を痛め、外科の病院に急遽連れていかなくてはならなくなりました。そのために、急にいけなくなったのです。その日は休んだので、次男の運動会も後半でました。
 以上、近況でした。
contentへ


Letter 076 元気で良かった?
2001年10月3日 0:25
小出良幸さま
 お元気でよかったです。が、ご家族の皆さん、風邪に倒れたり首を痛めたりと大変そうですね。お大事になさってください。また、小出さんがおたふく風邪にならないように、気をつけてください!
 調査は暑くて腕が火ぶくれになりましたが、楽しかったです。(未だに熱くてヒリヒリします。)
 砂がだいぶ被ってしまって、引き潮とは言いながらも前回の半分くらいしか露頭は出ていませんでした。ネコの手よりあてにならない手を持って、時折奇異なものを見るような視線を感じつつスコリアとパミスと砂と泥と・・・たくさん書きました。柱状図はどう書いていいのか全然わからないので、全部字です。(田口さんが書いてくださったところもありますが。笑。)蛯子さんがお描きになったスケッチ、感動しました。ああいうの描いてみたい!って思いました。そこら中に走向のメモが入っていて、細かくて・・・O型にはびっくりです。また、「パミスの層に入っている輝石の粒粒を調べてみたら、荒崎とかに入っている同じような層との関係がわかるかも!」という山下さんの話も面白そうでした。調べるの、楽しそうです。
 この頃餅田さんにメール出したりしていますが、その度に、小出さんは・・・?と思っていました。真相が明らかになって、今日は落ち着いて眠れそうです。
  スガイミサト
contentへ


Letter 077 思いつくままに
2001年10月4日 12:05
小出良幸さま
 おはようございます。菅井です。情報科学2の初授業を受け終えて、メールしています。
 一昨日餅田さんからメールが入って、「クリスチャンですか?」って聞かれました。小出さんもご存知のとおり、私は無宗教です。田舎のお墓は仏教ですが。私って、キリスト教徒っぽいですか?よくわかりません・・・。
 餅田さんは、まめにメールを下さる方だと伺っていましたが、長文家でもあられるようですね。すごいです。私の比ではないかもしれません。
 文化について一考書き加えようと思っていたのですが、近日公開ということで、お待ちください。
 それから、国名論議や岩石話、どうしますか?
 きっとお仕事が畳み掛けるように小出さんを押し潰しにかかっていると思うので、手が回らないかとも思いますが。岩石学の本を読んで見たいとは思ってはいます。が、せめてあと3・4ヶ月、卒論を提出し終わってある程度今後の予定のめどが立ってからのほうが、頭の中に入るし、集中できるのでいいかと考えています。それでは遅いですか?
 研修会が終わってから1度聞いてみたいなあと思っていたことを一つ質問させてください。
来年、EPACSに参加なさっている学芸員の皆さんで、企画展をされるんですよね。どんなことを展示なさるんですか?
 以上、とりとめもないことを書きつくりました。お昼ご飯を食べに行くので、これで終わりにします。
  菅井美里
contentへ


Letter 078 復帰したのですが
2001年10月19日 17:26
菅井様
 メール遅れました。申し訳ありませんでした。前半は多忙のためと、後半は病気でした。先週末の14日に東京都北区王子で地学教育学会のシンポジウムがあり、そこで午前中30分の講演をし、午後の座長をしました。その発表準備のために多忙でした。発病は、シンポジウム中でした。座長をしている時から少し調子が悪かったのですが、そのシンポジウムが終わった夜、息も絶え絶えに、自宅に帰り着き、そのまま病に倒れてました。病気は、激しいの頭痛の伴う風邪でした。丸2日間、ひどい頭痛と高熱にうなされました。17日にやっと食事をし始め、今日、復帰しました。でも今も頭痛が時々襲います。
 さて、これは2001年10月4日付けの「思いつくままに」(?!)に書いてあった、「国名論議や岩石話、どうしますか?」に対するメールです。
 国名論議は、前田君次第ともいえるし、菅井さんがまた意見を言ってもいいですよ。菅井さんが続けるなら、やりますが。多分、前田君は、メールを書かないでしょう。ですから、菅井さんにまかせます。
 「好き/嫌い」については、また後日です。それと、餅田さんの知り合いから、私気付けで、例の書が届いています。今度来た時に渡します。今日はここまでです。
 ではまた。
contentへ


Letter 079 好き/嫌い
2001年10月12日 22:05
小出良幸さま
 話をはじめる前に一言。
 「地球のつぶやきNo.2」を送って下さい。
―――――――――――――――――
 では、本題。「好き・嫌い」のお話です。
 「根源的感情」という言葉を出されていましたが、感情というものは、元来根源的なものではないでしょうか?むしろ、非根源的な感情というものはないような気がしますが、いかがですか?もしかしたら、説明がつかないような複雑な感情を非根源的な感情と考えられるかもしれません。でも、その複雑な感情も、誰かに教えられたりして発生したものではない、自然と沸き起こってきた感情である以上、根源的のように思います。(言葉のあげ足取りはここまで・・)
 それはいいとして、私の中にも、「嫌い」という感情はあるかもしれないと思いました。それは、小出さんが挙げてくださった「卒論」「父親」「菅井さんらしさ」ではありません。色々な事由により、生理的に拒絶反応を起こしてしまうような「態度」のことです。
 例えば、「甘え」。私は、「甘え」るのも苦手ですが、「甘え」られるのは、苦手を通り越して、甘えてきた相手を拒絶してしまいます。私は基本的に、人から頼まれたことは引き受けてしまう人間です。また、自分から進んで引き受けてしまうほうです。そのことを知っていたり、見抜いた人が、たまに私を利用するときがあります。そんな時、経験的に相手を危険視してしまいます。「この人、私を利用している」と。誰でも、人に利用されるのは気分のいいものではないと思います。私もそうです。
 他にも、そんな精神的拒絶を生み出す、他人の態度はあります。年長男性に限った拒絶もあります。「敬語」はそのひとつです。メールや手紙の丁寧語は対象外ですが、会話で丁寧語を使われると一瞬で身が硬直します。尊敬語・謙譲語は言うまでもありません。
 今、秘密を一つ、初めて人に言いました。博物館で皆さんとお話しているとき、どんな具合でかはまだ解明できていませんが、皆さんが「敬語」を私に使われることがあります。この頃は大分慣れましたが、それでも動揺している自分がいます。意思とは無関係に、「怖い」と感じてしまいます。ヘンですよね?自分でも、ヘンだと思います。そして、治そうとも思っていますが、いまだクリアできていません。
 小出さんは家族(奥様?)への感情を「限りなく好きに近い普通」と表現なさっていますが、世の多くの家族(夫婦)はそういう感情で結びついているのではないでしょうか。好き嫌いという一言で表されるような相手は、一緒にいて普段と同じ気を使ってしまうような人だと思います。普段よりも気を使わずに、一言もしゃべらなくても平気な相手が、おそらく「普通」。本当なら、普通というのは一番範囲の広いことをさす場合が多いでしょうが、私にとって、「普通」に感じる人はまず少ないです。
 卒論を書くのが手間取っているのと、3年のゼミのときから意見の相違が多いことから、担当教官と仲が悪い、あるいは私が担当教官を嫌っていると思っている人は少なくないでしょう。でも、今現在交流のある人の中では、一番気兼ねなく話のできる相手の一人です。そう、普通の人です。大学に入ってから知り合った学校の友人・先生等では、担当教官以外に普通に接することのできる人はいないかなと思います。どんなに親しくても、尊敬していても、誰かといて気が抜けることはないですね。大学で気を抜いていられるときは、授業中や図書館で本に挟まれているときくらいかもしれません。
 担当教官とこれからも長い付き合いをするとは考えられませんが、家族や夫婦というような関係の中では、好き嫌いを越えた「普通」の感情が絆となっているほうが、長続きすると思います。それは決して、「血縁」とか「家」といったいわゆる「切っても切れない絆」ではありません。心的な絆です。
 長くなってしまいましたが、茫洋とした話になってしまいましたね。もうちょっと気の利いた、山椒のような話ができるといいのですが、卒論の傍らということで・・・。
 では、また夜が始まるのでこの辺で!
      菅井美里
contentへ


Letter 080 Re:好き/嫌い
2001年10月19日 11:26
菅井様
 病み上がりの小出です。「地球のつぶやきNo.2」送ったはずですが、再度送ります。
 今日は本調子でないのと、忙しいのでここまでです。

contentへ 


トップへ戻る