Letter Box No. 6


Letters 「境界と越境」

目次

Letter 051 
Letter 052 
Letter 053 
Letter 054 
Letter 055 
Letter 056 
Letter 057 
Letter 058 
Letter 059 
Letter 060 


Letter 051 [Clubgeo 233] カーボヴェルデがわからない・・教えて下さい
2001年8月31日 1:11
[Clubgeo 233] より転載
前田信さま
 さっき届いた前田くんの自己紹介を見て、過去の疑問が甦ってきました。前田くんのこよなく愛するカーボヴェルデ共和国についてです。
 英語だとRepublic of Cape verdeですね。ポルトガル語だかスペイン語だとRepublicano de Cabo verdeなんですよね。
 2〜3ヶ月前にふと気が付いたことなんですが、何で、現地語ではCaveなのに、英訳するとCapeになっちゃうの?
 私の予想はコンナ感じです。英語でCapeは、「岬」という意味です。(南アフリカにCape Townっていうのもありますね。)カーボヴェルデ共和国は、国名ではなく地理的名称で言うと、「ヴェルデ岬諸島」と地図にあります。また、セネガルの首都ダカール(パリ・ダカールラリーをやってるところ)には、C.Verde(=Cave Verde、ヴェルデ岬)もあります。と言うことは、ラテン系の言葉で「岬」のことを“Cave”と言うのでしょうか。
 で、カーボヴェルデ共和国を極力日本語にすると「ヴェルデ岬共和国」が正しいことになるのでしょうか。だけど、国名は東西南北を示すような言葉と政治体制を示す共和国や社会主義などの言葉以外は、通常カタカナが使われているようです。(例外は漢字文化圏くらいではないでしょうか。)そこで、カーボヴェルデの場合、「岬」と訳さず、「カーボヴェルデ共和国」と呼ぶのかな…。
 ではでは、“Verde”ってどういう意味でしょうか。名前には、由来があるものです。
日本の場合、諸説乱立していますが、アメリカなんかは、発見者Amerigo Vespucciのラテン名Americusにちなんでいるって、ハッキリしていますよね。では、“Verde”にだって、何か意味があるはずです。
 私の手元には適当な資料も辞書もありません。前田博士、何かご存知なことがあったら教えて下さい。眠れないー。
 スガイミサト
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Letter 052 言語変換の難しさ
2001年9月2日 14:53
名前でお悩み皆様
 名前は、難しいものです。間違えては失礼に当ります。一番間違えてはいけなものです。でも、固有名詞には、その変換方法が辞書に書かれていないことが覆いのです。違う言語に変換する時は、常にこの悩みが付きまといます。
 日本語の「づ」は、ローマ字では「du」と表記します。でも、「du」は、英語では「ドゥ」といいう発音になります。例えば、「はづき」は「haduki」となり、英語読みすると「ハドゥキ」となります。こんな場合、実用上、使いづらく、表音文字としては「zu」を、適用する人もいます。この例では、あまり違和感はないのですが、もしかすると大きな誤読が起こるかもしれません。「ぢ、を」などでも、同じような問題が発生するかもしれません。
 また、ローマ字表記すると「n」に続いて、母音が来る場合です。たとえば「しんいち」という名前はJunichiとなり、「ジューニチ」と読んでしまいます。ですからJun-ichiという表記をする人もいます。
 名前の場合は、表記の問題で、オリギナルは一つです。でも、固有名詞でありながら、そこに「訳」という意味合いが加わると、更なる問題が生じます。たとえば、富士山などの山や酒匂川などの川がついた地名になると、どこまでを固有名詞と見なすかという問題があります。
 例えば、富士山なんかは、Mt. Fuji(なぜHugiでないのでしょうか)で定着していますが、Fujisan、Mt. Fujisanの英訳が可能です。Mt. Fujisanでは、意味がダブってしまうではないかという考えもあるのですが、Mt.とつけているのは、山が一般名詞という解釈です。では、大山の場合はどうなるのでしょうか。富士山のやり方でいけば、Mt. Ooですが、富士山を富士と呼ぶことはあっても、大山を「大」というだけ取り出すことはないはずです。OoyamaかMt. Ooyamaが、妥当なところでしょう。ということは、Mt. Ooyamaは「大山山」となります。Mt. Ooyamaなんかは、欧米人に妥協のしすぎですね。国粋主義的立場でいえば、HugisanやOoyamaがいいと思うのですが、いかがなものでしょうか。
 と、まあ、このように、固有名詞の言語変換には、あまり決まりはないようです。悪い言葉で言えば場渡り的、いい言葉でいえば臨機応変というべきか。となるわけです。今のは、日本語から英語の例でしたが、この変換は、日本人のあるいは私の語感を基にしています。ですから、他の人や、他の国には通用しないかもしれません。しかし、強引に一般化すると、私は、Republicano de Cabo verdeの場合も、ポルトガル語から英語への変換なので、何でもありでしょう。国粋的立場で言えば、Republicano de Cabo verdeがよくて、せいぜい、Republic of Cabo verdeあたりが、妥協点とすべきなのでしょう。実際は、言葉というのは生き物、流布した方が勝ちです。Hugisanではなく、Mt. Fujiが通用語となります。
 名前でお悩み皆様に、口をはさんでしまいました。失礼しました。
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Letter 053 [Clubgeo 239]
[Clubgeo 239] からの転載
2001年9月2日 20:36
こんにちは    前田です。
 小出さんのメールで,
> Republicano de Cabo verdeの場合も、ポルトガ
> ル語から英語への変換なので、何でもありでしょう。国粋的立場で言
>えば、
> Republicano de Cabo verdeがよくて、せいぜい、Republic of Cabo
> verdeあたり
> が、妥協点とすべきなのでしょう。
>
と,ありましたが,国の名前の場ありはそんないい加減な場合はほとんどありませんその国の言語の言葉の意味を十分に理解した上で,同じ意味を表すようにしているのです。CaboとCapeは同じ意味。Verde(ベルデと発音するのではなくポルトガル語では,ベルドと発音します)とVerdeも同じ意味。そして,REPUBRICANO DEと,REPUBRIC OFは,同じ意味です(この場合,これは関係ないのですが,)。
 国の名前のほとんどは,国が独立や成立をするとき,その土地の人々が,最も国に適するであろう名前をつけるのです。だから,国の名前については,他国が口を出してはいけないのです。その当たりを十分に理解しないと,思わぬ反感を受けることもあります。例えば,自分のスポーツのチームを作ったときに,名前を付けるでしょう。そのときにつける名前は,自分の一番納得する,好きなものでしょう。そのチームの名前を,試合をしたときに敵チームにけなされたら,例え自分のつけた名前でなくとも,怒るでしょう。それと同じ事なのです。だから,絶対に失言はしないで下さい。その国に対して失礼です。
 お願いします。

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Letter 054 前田君への反論(解説つき)
[Clubgeo 240]の転載
2001年9月3日 9:56
前田様
 カーポ・ベルドについては、思い入れがありそうで。。。。。。受けてたちますよ。それと、議論のやり方も紹介します。議論のやり方についての解説は()内も読んでください。
 「絶対に失言はしないで下さい。その国に対して失礼です」だそうですが、私は失言したつもりはありません。
(これは、まず、相手が自分に対して怒ったのですが、自分が相手の反論に、それ以上怒っているような素振りをします。気の弱い人や、目下の人はたいてい恐縮します。一種の恫喝です。)
 国名の英語標記は、例えば国連に参加するするときや、外交をするときの公用語となるので、正式名称が決められているでしょう。けど、日本語ではどうです。前田君は、カーポ・ベルドの正式な日本語標記を、なぜ、このような国の名前の議論をしているときに、日本語標記における正式名称で書かないのですか。それこそ、正式名称擁護派として、不用意な発言でないですか。私は、正式標記は知りません。あしからず。大使館や領事館のあるような国交がある国に対しては、正式名称が決められているはずです。では、日本語ではなく、マイナーな言語の場合はどうです。あるいは、国名でなくもっと小さな固有名詞ではどうですか。
(ここでおこなった展開方法は、相手の議論の自己矛盾をつく方法です。そして、相手の議論や反論がおかしいことを示します。まあいってみれは、揚げ足とりです。)
 私が前のメールで言いたかったのは、固有名詞に関する言語変化の一般的な困難さについてです。その解決策として、その国の言語を尊重することが一番いいのではないのかということでした。意味が伝わりにくくても、固有名詞は、現地語をそのまま採用するのがいいのではないでしょうか。そういえば、最近はエベレストからチョモランマに変わってきましてね。ただし、言葉は使われている道具なので、定着してしまうと、そのまま生き残るということがあるのです。というようなことを、いいたかったのです。
(相手の誤解を示し、例をあげながら論証に入ります。)
 「国の名前については,他国が口を出してはいけないのです。」そうかもしれません。でも、前田君自身も「ベルデと発音するのではなくポルトガル語では,ベルドと発音します」といっています。その国の主権を尊重するのであれば、固有名詞に関しては、自国語で発音をしてあげるべきではないでしょうか。なぜ、英語なのでしょうか。日本で、日本語とカーポ・ベルド語(実際にはポルトガル語)の関係のみが存在し、間に英語を介するのは、不純で、よくないことだと思いませんか。もし、英語を国際語だとするなら、すべての言語変換は、自国語以外は、英語として使用すべきではないでしょうか。でも、実際には、英語は限りなく国際語に近いのですが、国際語とはなっていません。
(相手の論点に認めるべき点がありながらも、自分の論点のほうが優れていることを示しています。また、再度相手のミスをついて論点展開の素材としています。ここで、自分の方が相手の主張より勝っていることを強く主張します。勝利宣言です。)
 今、日本の教育で、英語をもっと重要視しようという考えがあります。大いに結構です。10年以上習って、使い物にならない言語教育は抜本的に改革すべきです。話が横にそれました。
(そして、話題を大きくして、相手が追従できないようにしてしまいます。振り切り態勢に入っていきます。)
 固有名詞の発音をなぜ、英語でしなければならないのですか。富士山を、なぜ「Hujisan」といわずに、「Mt. Fuji」というのですか。前田君も無意識にそういっていませんか。前田君は、固有名詞を日本語から英語に変化する違和感について考えたことがありますか。日本人として、「Hujisan」ではなく「Mt. Fuji」のような誤用に、なぜ、カーポ・ベルド以上に腹を立てないのですか。そこなのです。言語というものは、活きているからなのです。そして、考えなければ、このようなことは、さらりと流れていくのです。でも、違和感は持っているべきです。カーボ・ベルデで示したような感性を、自分の国のことにも持つべきです。
(相手の弱みをつきながら、自分の意見への賛同を促します。)
 でも、前田君、もっと視野を広くしてみませんか。
 多分、私のような立場や発言は、ヨーロッパでは当たり前のことだと思います。つまり、自国語や自分たちの民族、文化を大事にするということです。英語は、幾つかの国の国語となっています。そして、英語は、国際的に一番使われている一番便利な言語です。でも、国際語ではないのです。そんな立場の人は、ヨーロッパやカナダにはたくさんいます。もっと、自分たちの国や民族、文化を大切にしています。だから、民族闘争が何百年の続いているのです。
(話題を展開して、さらに自分の味方にしようという戦略です。)
 日本人はその辺がすごくいいかげんです。例えば、元素記号の発言もそうです。英語読み、日本語読み、ギリシャ語(?)読みが混在しています。Na、Xeをどう発音しますか。ナトリウムとゼノンでしょうか。Naは、その他に「そうだ」、「ナトリュウム」ともいいます。Xeは「キセノン」、「クセノン」などといいます。言語をでたらめに混在させています。「そうだ」は日本語ですが、英語の「ナトリウム」が一般に使われています。Xeは英語では「クセノン」あるいは「キセノン」と発音します。これは日本でも使われています。一般的なのはいいのですが、そこに仁義や原理がないのです。
(例を挙げながら、発展的に議論を進めます。議論の駄目押しです。)
 日本人は、よく言えば融通無碍、悪く言えば茶乱歩欄(チャランポランと変換したらこうなりました。菅井さんこれで正しいですか)です。
 前田君、厳密にいくなら、徹底的にいくべきです。前田君の姿勢は、大いに結構。しかし、徹するなら、完璧を目指してください。私のようないいかげんな、主張はぶっ潰してください。反論をお持ちしています。
(以上のような解説をつけましたが、これは、冗談ではなく、一種の教育的配慮です。世の中には、もっとひどい意見や反論を書いてくる人もいます。そんなもので自分の主張を変えてはいけません。そして、議論しながら自分の意見を固めてもいくのです。そして、成長すればいいのです。)
 しかし、まだまだ若いもんにゃ、負けられません。ところで、これは、菅井さんの一言から始まったのですが、そろそろ、菅井さんもリングに上がってきてください。長くなくてもいいですよ。
 では、また。バトルはこれから、これから。
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Letter 055 [Clubgeo 242]
Makoto MAEDA <makoto@tecnet.or.jp>
2001年9月3日 13:54
こんにちは   前田です。
 小出さんから反論を食ってしましました。以下の気になる文章を引き抜き,その後にいろいろ書きました。

>  国名の英語標記は、例えば国連に参加するするときや、外交をするときの公用語と
> なるので、正式名称が決められているでしょう。けど、日本語ではどうです。前田君
> は、カーポ・ベルドの正式な日本語標記を、なぜ、このような国の名前の議論をして
> いるときに、日本語標記における正式名称で書かないのですか。それこそ、正式名称
> 擁護派として、不用意な発言でないですか。私は、正式標記は知りません。あしから
> ず。大使館や領事館のあるような国交がある国に対しては、正式名称が決められてい
> るはずです。では、日本語ではなく、マイナーな言語の場合はどうです。あるいは、
> 国名でなくもっと小さな固有名詞ではどうですか。

>  「国の名前については,他国が口を出してはいけないのです。」そうかもしれませ
> ん。でも、前田君自身も「ベルデと発音するのではなくポルトガル語では,ベルドと
> 発音します」といっています。その国の主権を尊重するのであれば、固有名詞に関し
> ては、自国語で発音をしてあげるべきではないでしょうか。なぜ、英語なのでしょう
> か。日本で、日本語とカーポ・ベルド語(実際にはポルトガル語)の関係のみが存在
> し、間に英語を介するのは、不純で、よくないことだと思いませんか。もし、英語を
> 国際語だとするなら、すべての言語変換は、自国語以外は、英語として使用すべきで
> はないでしょうか。でも、実際には、英語は限りなく国際語に近いのですが、国際語
> とはなっていません。

>  今、日本の教育で、英語をもっと重要視しようという考えがあります。

>  固有名詞の発音をなぜ、英語でしなければならないのですか。富士山を、なぜ
> 「Hujisan」といわずに、「Mt. Fuji」というのですか。前田君も無意識に
>そういっていませんか。前田君は、固有名詞を日本語から英語に変化
>する違和感について考え
> たことがありますか。日本人として、「Hujisan」ではなく「Mt. Fuji」のよ
>な誤用に、なぜ、カーポ・ベルド以上に腹を立てないのですか。

>つまり、自国語や自分たちの民族、文化を大事にするということです。英語は、幾つか
> の国の国語となっています。そして、英語は、国際的に一番使われている一番便利な
> 言語です。でも、国際語ではないのです。そんな立場の人は、ヨーロッパやカナダに
> はたくさんいます。もっと、自分たちの国や民族、文化を大切にしています。だから、民族闘争が何百年の続いているのです。

これは,自分が,別にCABO BERDE(これが一番問題がないと思います。)では,昔,白人に支配された歴史があることと関係します。CABO BERDEは,15世紀(色々な説があります)にポルトガル人(発見した人も色々な説があります)が発見しました。そのときには無人島でした。その後に,ポルトガルという「国」が奴隷貿易の拠点として,20世紀まで植民地化して,支配していました。そして,そこに住んだ奴隷たち(白人に買われて結婚したりしたばあい,奴隷たちは言語に困りました。そこで,それらの人々が使った言語がクレオール語です。この言語は,長いあいだ,時間をかけて開発されました。だから字はないと聞きます。クレオール語とは,多くの言語が交じり合う土地で,全ての人々が分かるようになっている言語のことを言います。だから,この言語は完全な言語とはいえません(この考えについては紛争が起こるほど大変な問題なので,何も言わないで下さい)。それらの言語は,ある言語学者(フーゴ・シューハルト)が論文で「クレオール語」と名前を付けて発表するまで,スクラーヴェン・シュプラーへ(奴隷言葉)としてけなされていました。それらの言語を作らしたのは自分達白人なのに。その意味では,日本という「国」も同じ事をしています。この意味は分かりますね。つまり,強い「国」が植民地を増やすときには,その土地の人々が使っている素晴らしい言語を潰してしまうのです。だから,英語(アメリカ英語)が一番国際社会で権力が強いのです。だから,もし日本が一番世界で強かったのならば,例え,世界中の言語と異なる言語であっても,世界中で使わざるおえないでしょう。それから,CABO VERDE語というのは,クレオール語のことなのでしょうか。クレオール語とは,一つの言語を指す言葉ではないので,同じクレオール語と呼ばれている言語を使っている「国」でも,その言語が同じものということはありえないのです。しかし,完璧な言語,つまり,例えばフランス語とドイツ語が二つの「国」の人々全てに通じるような場合は,クレオール語とは言いません。CABO BERDEのような、他の地域の人々に占領され,自分の「国」の言語を忘れさせられて,その占領した地域の人々の言語に合わされたような「国」は,とても惨めな思いをしています。しかし,今,そのような経済力・技術力を持っていない「国」は,植民地化していた「国」に対して,賠償金を請求して生活し,その「国」に働きに出かけているのが現状です。
 もともと,「国」というのは,人が欲望にあふれてかってに作ってしまったものです。どこでもそんなものはあります。アメリカのインディアンと呼ばれている人々も,「国」に十分と関係してしています。スナイパーのように,イギリスの軍隊を銃で倒していました。そして,自分たちの土地を売ったりもしました。そのようなことが徹底して嫌いな民族もいます。そこに住む人々は,頑固ですが,とてもやさしく,いい人たちです。「国」というものは,人々の憎しみ・悲しみ・欲望・ネタミなどを増幅させてしまいます。「国」について、人が全てを理解した時には,別のものが待っています。今のまま(争っている)のようなのでは,虫たちの世界と同じです。まあ,人も全ての生き物と同じということです。実を言うと,ただ単に自分は,CABO BERDEが好きなわけでなく,小さな,貧しい「国」がすき(この表現は,間違っているような気がしますが)なのです。ただCABO BERDEについて詳しいだけなのです。ただのCABO BERDE馬鹿というふうには誤解しないで下さい。しかし,他の「国」についてはあまり知りませんですから,あまり言うことは出来ません。それから,カーボベルドという風に自分が言ったことですが,やはり,他の地域について言うときは,その言葉は現地にあわせるのが正しいと思うのですが。例えば,車のメーカーで,フォルクスワーゲンのことを言うときにファーベーというでしょう(これはちょっと違うかもしれません)。マカオなどでは,やはり白人である,ポルトガル人が国名に影響しています。そして,国名がその「国」の国旗や国花や国歌に影響する場合もよくあります。さっきの話に戻りますが,例えばアルバニア,この「国」の国名の由来は,石灰岩製の地質からラテン語‘albus(白いの意)’から出来たという説が最も多く,有力ですが,自国では「シュキプリア(鷲の「国」の意)」と呼びます。だから,こういうような場合は,自国の人が愛用している「国」の名前を使うべきでしょう。自分は,正式名称にこだわっているわけでなく,一番適するのではないか,と思うような名前を選んでいるつもりです。だから,CABO BERDEの場合も,英語のような全世界に通用する,いわゆる「正式名称」よりも,その「国」の言語「ポルトガル語(公用語・クレオール語は国語)」であらわす方が最も適するのではないのか。という風に思ったのです。本当は,クレオールで言いたいのですが,クレオールの発音も,その言葉自体の感じも知りません(少しは分かります)。だから,公用語であるポルトガル語の名前で呼んでいるのです。しかし,いまだに英語の正式名称しか知らない「国」が多いです。一刻も早く,自分で言う「正式名称」をまとめたいと思っています。小出さんの言うとおり,国連では,使われる言語は7ヶ国語で,それにあわせ,英語の「正式名称」で言わなければいけないでしょう。しかし,日本でいうときに,日本語で言う必要はないでしょう。国連では,そういわなければ分かりにくいから英語の「正式名称」を使っているだけだと思います。そういうことです。だから,なるべく,よく使う「国名」だけは,その土地の言葉を使いたいのです。日本だって,JAPANでなく,「日本」でしょう。

> しかし、徹するなら、完璧を目指してください。私のようないいかげんな、主張は
> ぶっ潰してください。反論をお持ちしています。
 ちょっと自分には完璧は無理です。しかし,気になる主張に対しては,あきれられるほど,徹底的に言います。こちらも反論に対しては,立ち向かいます。反論お待ちしています。


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Letter 056 視野を広く、心も広く
2001年9月4日 11:15
前田さま
 反論読みました。大作ですね。「反論お待ちしています」という挑発にのって、反論します。
 でも、前田君の文章は、議論の流れと主張がわかりにくいですね。私の何に反論しているかわかりません。これでは、私の反論を期待しても、だめです。反論のしようがありません。日本語のレベルで負けです。
 非常に苦労して、前田反論を読んで、解析しました。久しぶりに難文の読解をしまし。その結果を、私なりにまとめます。
 以下要約です。基本的に原文のままの部分は「」で示しています。文章を編集する時に一部修正した部分があるかもしれません。あしからず。
--------------------------------------------------------------------------------
・国名
前田説では「CABO BERDE」が、いいらしい。
・CABO BERDEの歴史
「15世紀にポルトガル人が発見」した。それまで「無人島」だった。「ポルトガルが、奴隷貿易の拠点として,20世紀まで植民地化して,支配」した。
クレオール語は、「奴隷たちが使った言語」で、「長いあいだ,時間をかけて開発され」、「字はな」く、「多くの言語が交じり合う土地で,全ての人々が分かるようになっている言語」なので、「完全な言語とはいえない」。それまで、奴隷がしゃべっていた言葉は、「スクラーヴェン・シュプラーへ(奴隷言葉)としてけなされていました。」
「クレオール語とは,一つの言語を指す言葉ではないので,同じクレオール語と呼ばれている言語を使っている「国」でも,その言語が同じものということはありえないのです。」
・国について
「「国」というのは,人が欲望にあふれてかってに作ってしまったもの」で、「人々の憎しみ・悲しみ・欲望・ネタミなどを増幅」する。「「国」について、人が全てを理解した時には,別のものが待っています。」
・国名について
「自国の人が愛用している「国」の名前を使うべきでしょう。」「その「国」の言語(中略)であらわす方が最も適する」
国名を「日本でいうときに,日本語で言う必要はない」
・議論に使った例
英語
アメリカのインディアン
フォルクスワーゲン
マカオ
アルバニア
日本
・思い入れ
「自分は,正式名称にこだわっているわけでなく,一番適するのではないか,と思うような名前を選んでいるつもりです。」
「よく使う「国名」だけは,その土地の言葉を使いたい」
「CABO BERDEのような、他の地域の人々に占領され,自分の「国」の言語を忘れさせられて,その占領した地域の人々の言語に合わされたような「国」は,とても惨めな思いをしています。」
「CABO BERDEが好きなわけでなく,小さな,貧しい「国」がすきなのです。」
「ただCABO BERDEについて詳しいだけなのです。」
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以上が、前田反論の私の要約です。
 さて、ここから、さらに内容を抽出します。
 まず、議論に必要がない「国名」、「議論に使った例」、「思い入れ」、「CABO BERDEの歴史」は、削除します。異議があるかもしれませんが、議論のテーマから外れています。
 また、意味が不明瞭な部分は除きます。例えば「クレオール語とは,一つの言語を指す言葉ではないので,同じクレオール語と呼ばれている言語を使っている「国」でも,その言語が同じものということはありえないのです。」は、文脈と矛盾、もしくは意味不明です。個の文章だけでは、CABO BERDEの言語ではなく、同じような成り立ちをした言語をクレオール語といいう名称で呼んでいるようは誤解を宛てます。なので削除します。
 また、根拠のない議論はすべきではありません。例えば、「「国」というのは,人が欲望にあふれてかってに作ってしまったもの」で、「人々の憎しみ・悲しみ・欲望・ネタミなどを増幅」する。「「国」について、人が全てを理解した時には,別のものが待っています。」これは、独断で、根拠が示されていません。そして、一番肝心の何が待っているかを示していません。このような意味ありげな言葉は、文学作品ではありですが、議論の場には不要です。削除です。
 個々についていろいろ反論もあるのですが、それをやると本筋から外れますので、ここでは、しません。
 すると前田反論で残るのは、国名についての議論のみで、「自国の人が愛用している「国」の名前を使うべきで」、「その「国」の言語」「であらわす方が最も適」し、国名を「日本でいうときに,日本語で言う必要はない」です。
 これが、私の議論に対する反論の中核をなし、結論となるはずです。
 さて、ここからが問題です。この文章は私の前回の発言に対しての反論です。そして、前回、私が議論したときのテーマは、「国名も含めて固有名詞を、他の言語にするときどうするのが一番いいのか」という一点です。素材は、何でもいいのです。菅井さんからでたのがCABO BERDEだったので、それが、素材になったのです。ですから、CABO BERDEでなくてもいいもです。実際に私は、英語という言語を用いて英語の表記方法として「Mt. Fuji」や英語と日本語の発音に関して「大山」などの例を出しました。
 私の結論としては、「自国語や自分たちの民族、文化を大事に」していくべきで、他国はそれを尊重すべきであるいうことです。つまり、私の結論と前田君の結論は、同じであるということです。つまり、反論になってないのです。私が、個別の例や反証として用いた素材に対して、前田君はいろいろ文章を書いたのですが、実は「国名も含めて固有名詞を、他の言語にするときどうするのが一番いいのか」というテーマについては、国名以外については何も語ってないのです。
 そして、それらしき発言は、国名を「日本でいうときに,日本語で言う必要はない」です。じゃどう書くのですか。私は、アルファベット(ローマ字)も含めて日本語表記はありではないかと思います。今までは、アルファベット表記で、本当なら文字をもたないクレオール語表記かポルトガル語表記が正式一番いいはずです。でも、クレオール語表記ができないのなら、無理は承知で現地の発音を言語変換して日本語表記もありだと思います。それが、私の例でいう「Mt. Fuji」か「Hujisan」表記かの問題となると思います。この辺は、議論の余地ありです。
 ここで考えて欲しいのは、前田君がCABO BERDEに展開した議論を、もっと一般化して欲しいのです。つまり、視野を広く、心を広く考えて欲しいのです。そうすれば、私のテーマは、「国名も含めて固有名詞を、他の言語にするときどうするのが一番いいのか」という点について議論が深まったかもしれません。
 前回の私の議論で、最後に、蛇足かもしれませんが、それでも、言語というのは生き物だから、使われ、流布したものが標準となってしまうという、嘆かわしい風習、習慣があるということも述べました。
 前田君、素材や例は、CABO BERDEでも、クレオール語でもいいのですが、上記のテーマと私の議論をどう考えるかに対して議論して下さい。まだまだ、私が一番大切だという点に関して議論が足りません。こんなところに噛み付くのです。それ以外に個々の例や、思い入れの部分で反論されても議論になりません。本質での議論をまっています。
 さらに、蛇足ですが、そして当事者ではありますが、今までの2人の議論を客観的にみるとどう映るかです。私の考えは、以下です。
 私の挑発にのって、前田君は感情的になってしまった。また、精一杯の反論をしたが、テーマ設定がCABO BERDEにこだわっているために、議論が弱く、反論になっていなかった。そして、結局、小出と同じ結論になり、議論を深めていない。
というような見方ができます。一番悪いのは、反発や思い入れなどの感情の部分が全面にでていることです。理性的な状態で議論すべきです。
 前田君、本当の反論や議論をお願いします。
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Letter 057 本題とチョットずれるけれど話したいこと(長ー)
Misato Sugai <santouka@crest.ocn.ne.jp>
2001年9月5日 3:33
[Clubgeo 247] より転載
前田君、小出さん、皆さま
 雨上がりの綺麗なお月さまが、私の部屋を照らしています。
 私は、雪の次に雨が好きです。
 雨によって空気がきれいになって、草木の葉っぱがうるおって生き生きしてくるからです。
 また、暑い日ざしが照ったあとにさーっと降り去っていく夕立は、草木がお日様にエネルギーをもらいながらも、その暑さには耐えかねていた所に、休息を与えてくれる、やさしい恵みであるようにも思います。
―――――――――――――――――――――――――――
 大変です!
 ご要望に沿っていませんが書き始めて5時間が経過し、4500字を越えていることが判明しました。
 お気をつけて!
―――――――――――――――――――――――――――
 では、本日のお題に突入しましょう。
 先日はコンピュータトラブルのために休養後の意見文書が消滅してしまいましたが、今日はどうでしょうか。
 初めに、自分のことを棚に上げて、チョットだけ挑発的で不敬な発言をします。
 小出さんに対してです。
 小出さんは、前田君の反論(?)を、「反発や思い入れなどの感情の部分が全面にでている」とし、「本当の反論や議論」を前回求めていらっしゃいますね。
 前田君の文章は、確かに感情が強く表われています。理性的な文章とは言い切れないでしょう。もうすこし肩の力を抜いて、相手(小出さん)の話を、入り込まず、引いて見てみるといいと思います。
 一方、小出さんの意見の仕方は、当然ながら大人です。感情の強さは筆意(打意?)から十分うかがえます。が、前田君と違うのは、その感情を覆い隠す(悪く言えばもみ消す?)だけの文章力があるということでしょう。そこが、大人なんですね。・・同じだけの強い感情を持っていても、小出さんのようにその感情の根源となっていることを順を追って、「論じる」ことができると、感情は、その論でカモフラージュされるんです。つまり、小出さんの文章を一皮向くと、前田君張りの感情があるということになります。
 (この文章をチョット引いて読んでみてください。大人な文章を、私はあまり魅力的に評価していません。ことによると、絶対悪のものさえも正当化できる方法だからです。例えば、原爆投下擁護派のアメリカ人、ユダヤ人のシオニズム運動を単なる人種主義と言い捨ててしまう人びとの話も、論の筋だけ考えれば、必ずしも矛盾をはらんではいません。が、本当に目を向けなければいけないのは、そういう論拠の矛盾ではなく、その下に脈々と流れる人間の感情・思いのはずです。そこを見落としてはいけないと思います。)
 しかし、小出さんのように、私は前田君及びその年代に対して「理性的な文章(智恵)」を即行もとめようとは思いません。なぜって、あのような文章を書けるだけの素地(知識とココロ)を持っていることが、本当は重要なことだからです。感情的になって当然です。だって、感情の泉が湧き出ることで生き、社会や他の人に対して自分の考えをぶつける年ごろですから。(かえって頼もしいなあ、と思います。後は正しく導かれるだけですね。)誤りは正すべきですが、思い入れや独断偏見が、後々人を思いやる心に昇華することはたくさんあります。正にしろ誤にしろ、自分の中でこうだと思ったことを突き進んでいってみるのも、若者の特権でしょう。それに、先ほど言った、論拠の矛盾よりも目を向けるべき「心」が育つのは、今・・・つまり、クモラナイ目で物事を見、本質を見抜くチカラは、前田君のような過程を経て、得られるものだと考えます。実際、あたり構わず感情の赴くままに中高時代を過ごした人間ほど、社会貢献に対する意識が高かったり、社会的弱者に対して適切な対応ができていたりするものです。(うわべだけの中身のない人間を育てるためには、心が育たないような環境にし、説明文と数学を、機械的に教え込めばいいかもしれません。あれ?どこかの国の教育の方向に似ているかな?)
 「根拠のない議論はすべきではありません。」と小出さんは仰います。でも、自分の思い・意見を感情に載せて発露したのであって、何も議論を持ちかけたわけではないような気がします。否、もし議論を持ちかけたのだとしても、前田君は列記とした中学三年生です。人間の成長過程を考えたとき、前田君の主観に重きをおいた意見の仕方は正常なはずです。(議論を持ちかけようとしたのではなく、意見としていったのであればなおのこと。)・・・前田君は、私よりもいろんな事を知っているし、考えていると思います。だから、私より大人だなあ、と感じることが良くあります。でも、私が未熟な21歳であるように(?)、前田君も実は中学三年生なんですね。言葉の端々に強い気持ちが込もったり、野生の生き物のことを面白そうに話すとき、「あ、中学三年だったっけ」なんて思います。今回の紆余曲折メールもその類に入るかもしれません。
 それこそ、前田君が熱く語るのに乗って、小出さんはヒートアップしている感じです。人付き合いに手抜きは厳禁ですが、相応の対応について一考の余地ありではないでしょうか。<ものすごく生意気ですね!ワタシ!>
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 さてさて、はじめにが長すぎましたね。
 このメールを送るまでにお二人の白熱バトルは数回を数え、これから突然参加するには、何らかの手段でその数回を乗り越えて土俵に上がらねばなりません。私がそのアイテムとして選ぶのは、「言語」です。文系のことも理系のことも中途半端にしか知らないですが、「日本語」をベースにすればヨコヤリ・・いえ反論ができるかもしれません。本幕の開けです。
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 なんだか小出さん叩きをするようで恐縮ですが、小出さんの論にいくつか不備が認められますので、そこを少しツツキマス。
★hadukiやHujisan
 ローマ字は、アルファベットと同じ文字を使いますね。違いのわかる方はいらっしゃいますか?・・手短に正解を言うと、ローマ字は日本語の文字(漢字に中国起源があるように、外来の日本語と言うことです。)、アルファベットは英米語の文字です。まず、ローマ字は、キリスト教や鉄砲を持ち込んだラテン系(ポルトガルやスペイン)の人が持ち込みました。布教活動をするのに日本語を話す必要性があり、そのため日本語を自分達の国の文字(アルファベット)に当て字しました。これがローマ字のはじめです。しかし、近世禁教によって、オランダ人・蘭学者がローマ字を使い、明治に入ると英・仏・独等の諸外国も日本語の発音を当て字するようになり、各国バラバラの当て字ができてしまいました。今でも、医学はドイツ語・思想哲学はフランス語など、学問によって使う言語が違ったりしますね。同じようなことが当時もあって、医学はドイツ語式ローマ字・海軍はフランス語式ローマ字・・というように使われました。しかし、バラバラの当て字では一般人には使い勝手が悪いですね。そこで、それらを統一するため、「ヘボン式」ローマ字という表記法がつくられました。ヘボン式といいました。実は、小出さんの示したhadukiやHujisanは、ヘボン式ではありません。ヘボン式では「hadzuki」「Fujisan」と書きます。hadukiやHujisanは日本式ローマ字です。ヘボン式ローマ字は、発音を重視して英米式のローマ字を修正して作られたものです。ですから、発音してみるとわかるように、現在の日本語の発音と同じように「づ」を「ず」と同じく発音できます。では、Fujisanはどうでしょう。Hujisanを発音してみてください。Hの音は、口を横に引っ張って出す音で、Uは口をすぼめて出す音です。不自然ではありませんか?Fujisanなら、そんな問題はありません。FもUも口をすぼめて出す音ですから。
 日本式ローマ字は、文字を重視したつづり方です。例えば、ヘボン式で/ha hi fu he ho/や/da dzi dzu de do/と示す所を日本式では/ha hi hu he ho/・/da di du de do/と書くので、文字を覚えるのが簡単で、発音さえ無視すれば使いやすいです。が、小出さんも指摘なさったように、発音の観点から言うと、これは今ひとつです。
 私たちの年代は、小出さんと同じく、日本式ローマ字を習いました。ヘボン式は括弧書きでした。覚えることは減って得しましたが、運用の面で損をしました。ヘボン式ローマ字は、40代後半から50代以上の方が学校で習ったはずです。
 というわけで、国際化の進む時代の流れを考えると、少しくらい書き方が面倒でも、昔のヘボン式のほうがいい感じがしますね。でも、実際は固有名詞をヘボン式であらわすことで、外国人が「ふ」「じ・ぢ」「ず・づ」などを正しく発音できるため、使われています。促音や撥音などのつづり方がヘボン式だと少し厄介なので使いづらいですが、いいつづり方だなと思っています。
 日本語は柔軟な言語です。政治体制を漢字にしたり、中国なんて、省の名前は音読みで都市の名前は現代中国語読みだったり、そうかと思うと、韓国の地名人名は漢字であってもこの頃はカタカナです。(韓国の場合は、ハングル尊重の向きが強いためにカタカナになったようです。)また、「オレンジ公ウィリアム」を「オラニエ公ウィレム」、「バージニア」を「ヴァージニア」のように、昔の英語発音基準から現地の発音に近い音に修正して行こうとしています。
 外国ではどうでしょうか。中国語は、すべて漢字に変換して表します。アルファベットを使う国々は、大概他の国の名前と呼応する名前(カールとシャルルなど)がありますから、やはり自分の国の表記・発音に直すことが多いそうです。
 「国名も含めて固有名詞を、他の言語にするときどうするのが一番いいのか」ですが、各国独自でOKと言うのが私の意見です。日本は幸運なことに、漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字があって、運用もわりと自由です。先ほど書いたように、今まで英語基準だったものを、民族感情などに配慮して現地語に近づけようとすることだってできます。(これはいいことだと思います。)そうして、同じ名詞に2つ3つの読み方が付けられたりすることもあります。さっきのオレンジ公とオラニエ公では、勘が鈍いと別人かと思うかもしれないですね。厄介ではあります。でも、小出さんの化学記号の例は少しこれとは別な気がします。和名はともかく、キセノンとゼノンのように、元素記号さえXeだとわかっていれば、どちらのカタカナ表記であってもXeであることは想像できる範囲内ではないですか?それに、元素はカタカナで示すより、記号で示すことのほうが多いですよね。元素記号がわかってさえいれば、バリアフリーなのが科学のすごい所だと私なんかは思います。だから少々、国名・地名・人名の変換とは異種な感じです。元素記号という世界共通語のもとに読み仮名がついているわけで。オラニエ公はたとえ現地語に近づけたとしても、現地では通じないですから。元素記号に民族感情を燃やす小出さんは、ある意味、貴重な科学者かもしれないですよ。
 世界史や大学の社会科学系の講義では、英語がたくさん出てくるので日本語と英語を混用していたりもします。ローマ字どころか、完全な外国語がノートに出てくる時代です。この頃街では英語、ドイツ語やフランス語なんかも普通に店や売り物の名前になっています。読めないことだって多々あります。こうしていろんな言葉が入ってくることは、面白いことです。いろんな国の言葉が入ってくれば、そのうち少年の望むように現地語に近い形・・例えば文字のない言語もアルファベットにあて字して示す時代もくるかもしれません。国粋主義さんから言うと私って少し非国民でしょうか。でも、言語は移り変わるものなんです。それが自然であり、それを嘆くも楽しむも人の自由です。だったら楽しんだほうが、日本語を好きになれていいと思います。聞こえのいい言葉遣いや敬語は使いこなせたらいいナと思ってはいますが、なかなか言葉の方がこういう人には使われたくないようで、身に着きません。コンピュータにも言葉遣いにも嫌われているなんて!
 最後に、これ以上書く体力はないので、誤変換訂正を箇条書きにしていきます。
★英語標記→英語表記(標記と表記は意味が違います。)
★茶乱歩欄→ちゃらんぽらん(誤変換の典型です。)
おやすみなさい。反論されちゃうのかなあ。
      スガイミサト


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Letter 058 いろいろ思うこと
2001年9月5日 10:28
菅井様および前田君へ
 菅井さんの長いメール読みました。
 寝起きを襲うようですが、すこし意見があります。
 前田君が読んでいるのですが、clubgeoで送ります。
 前田君が中学生であること、そして、普通人以上に知識をもち、そして、CABO BERDEに思い入れもあること、すべて了解の上で展開をしたつもりです。私が、もっと「大人」として、軽くイナスという方法があったかもしれません。でも、私は、できる限り、対等にを前提に、なおかつ少々教育的に書いたつもりです。
 そして、議論と意見や感想という区別を菅井さんはされていますが、でも、ある相手にたしてなされた場合、それは、感情的にはどれも同等の重みを持ちます。2人であれ、多数であれ、議論の中に入って何かを述べるということは、自分の意見対し、賛同なのか反対なのか、それとも全く違う意見なのか、などの評価をつけられ訳です。そんなつもりではなくても、場がそう判断させます。それと、今回の場合には、前田君は「こちらも反論に対しては,立ち向かいます。反論お待ちしています」と明記していますので、素直に反論と考えました。
 「反論」に対して、一番最初に書いたのは、「[Clubgeo 241] 前田君への反論(解説つき)」の()部分が無く、教育的文言が混在した文章を書いたのですが、あまりやりすぎると前田君に失礼になるし、議論が散漫になり誤解が生じるといけないので、反論だけにした「[Clubgeo 240] 前田君への反論(まずこちらを読んで)」を送りました。そして、それに()の解説付きの方に書き直して、別便で送ったのです。これはかなり、イナシ気味ですが。
 これが、私がいいと思った考えたやり方でした。
 そして、2度目の反論に対するときは、もうそんなことをせずに、対等に議論しようとしました。その方が前田君に対しても、礼を尽くすことになると考えたからです。でも、文章があまりに感情的部分が多かったのと、論点がずれていたので、議論にまで至りませんでした。唯一論点になりそうなのは「日本語変換の部分」についてです。その点については、後で議論します。ですから、前田君、めげずに議論して下さい。前田くんの「気になる主張に対しては,あきれられるほど,徹底的に言います。こちらも反論に対しては,立ち向かいます。」という気持ちは非常に逞しさを感じます。期待しています。そして、私は、それに対して対等に議論するつもりです。
 前田君は中学生で、私と比べれば経験も文章力も劣っているかもしれません。でも、私はこの程度打ち止めですかが、前田君はこれから、いくらでも成長することができます。それも、期待しています。
 でも、2度目の前田君の反論は、やはり焦点が別のところにあり、私の意図しているところからかけ離れていってました。それと、やはり、自分の意見を相手に伝えのであれば、伝わるようにしないといけません。「[Clubgeo 239] Re: [Clubgeo 238] 言語変換の難しさ」の文章では、反論の仕様が無いし、感情が全面にでると、それだけが相手を刺激し、それに相手が反応すれば、悪循環や泥仕合のような不毛な議論になりかねないからです。前田君でなれば私はあのような書き方をせず、「最後のお互いたどり着いた結論は同じですね」と、大人のイナシをして、「日本語変換の部分」か、別の議論をしていたはずです。前田君だからあのような、こまごましたこと添削するようにしたのです。
 議論というのは、口頭ではなくメールのように、自分考えて書け、相手の意見も熟読できる場合は、注意が必要ですし、じっくり考えられるという利点もあります。ですから、メールに通じた議論というのは、議論の訓練としては非常に有効かもしれません。もともとEPACSのメーリングリストのearthはそのつもりで始めました。で、clubgeoのメーリングリストの方が活用されています。
 菅井さんが、「前田君が熱く語るのに乗って、小出さんはヒートアップしている感じです。人付き合いに手抜きは厳禁ですが、相応の対応について一考の余地ありではないでしょうか。」という意見です。私は大人の文章でありながら、ヒートアップしているといわれます。当然、起こべきして起こったことだと考えられます。ある人の感情は別の人の感情を引き起こします。文章を書くこと、それも、意見を述べる文章とは、その奥には当然、強いモチベーションとなる感情があります。そのようなものが無ければ文章など書けないのではないでしょうか。それを顕わにするか、理性で押さえ込むか、非常に重要です。大人でも子供でも、感情を持つ人間なのですから。この話しはこれくらいにします。
 ローマ字表記です。私のならったローマ字は日本式です。それ以外は、ヘボン式というのは聞いたことがあるのですか、どのようなものがあるかわからなかったのですが、菅井さんの説明でわかりまりました。私は、知りませんでした。
 さて、固有名詞の外国誤変換についてです。
 前田君の、国名を「日本でいうときに,日本語で言う必要はない」を、広義に解釈すれば、外国語の固有名詞など「日本語に変換しなくていい」といっています。誤解があれば訂正を。
 一方、菅井さんは、「各国独自でOKと言うのが私の意見です。日本は幸運なことに、漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字があって、運用もわりと自由です。先ほど書いたように、今まで英語基準だったものを、民族感情などに配慮して現地語に近づけようとすることだってできます。」
 菅井さんの「各国独自」というのは、変換する側の自由でしょうか、それとも変換される側の自由でしょうか。それとも両方の意味が含まれているのでしょうか。文脈からいうと、日本語への変換時ということですね。
 例えば、CABO BERDEも、漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字のどれか適切な書きようをすればいいということですね。ですから、前田君はCABO BERDEは、日本語でもCABO BERDEで、菅井さんはCABO BERDEとポルトガル語のカーポ・ベルドか、「国語」であるクレオール語の表音表記(読み書きとも知りません)の、どれもありということですね。違いますか。
 両人とも、当然、相手の国への配慮がそこには入るはずです。その配慮は、前田君のように、こちらがCABO BERDEに感じる配慮より、相手がどうして欲しいかという要望を聞く配慮でしょう。でも、これが案外難しいということです。それは、その国の情報が流れてこないというという意味ではありません。今度は舞台を日本にします。例えな日本語を英語にする時、日本人が不用意に用いた不適切な表現でも、それを訂正あるいは改善する声が、日本人側から出さない限り、英語圏の人はそれを、日本国民が納得しているものと判断してしまいます。だから、Mt. FujiやGeisha girlが間違っているとか、こうして欲しいということを、多くの人が言わないといけません。
 でも、流布している言葉というのは生き物のようですので、一同活動を始めると、なかなか変態させることは難しいというのが、以前の私の主張でした。多分、これも菅井さんと同じ結論です。
 それに、菅井さんは、「国粋主義さんから言うと私って少し非国民でしょうか」といわれますが、私からすると、充分、国粋主義的です。「言語は移り変わるものなんです。それが自然であり、それを嘆くも楽しむも人の自由です。だったら楽しんだほうが、日本語を好きになれていいと思います。」などの発言は、国粋主義的だと思います。それは、決していけないことではなく、私もその意見です。
 日本人は、欧米を意識しすぎ、追いかけすぎます。日本のよさの発信が少なすぎると思います。だから、私の主張は、「輸入文化からの脱却と固有文化の発信を」です。「輸入文化からの脱却と固有文化の発信を」というのは、実は案外簡単です。自分たちが住んだり興味を持っている地域の自然や文化を素材とすればいいのです。その素材から得ている情報を、園に向かって発信すればいのです。その発信の仕方はいろいろです。何らかもメディアを介しておこないます。インターネットも一つのメディアです。その地域の人からの発信が一番適切で、一番情報量も多いはずです。そのような、地域文化の発信を、私たちのEPACSは行っているつもりです。現在運営中のインターネットのデータベース「神奈川大地」や、作成中(近々公開予定)のデータベース「身近な自然史」と「砂の自然史」は、そのケーススタディと位置付けています。別に情報発信のメディアなんでもいいのです。でも、インターネット以外のメディアは、お金や労力がかかります。でも、インターネットは一番安上がりなメディアではないでしょうか。それに、EPACSでは、「地球のからくり」は、特別展の図録(印刷あるいは紙メディア)を元にして、CD-ROM版も作成しました。さらに、「神奈川大地」に関しては、一般流通に流れる書籍とCD-ROMというメディアも使いました。
 でも、次のステップとして、情報の発信だけでなく、受信あるいは双方向性が必要です。EPACSの眼目は、インターネットの掲示板にあります。ここが、インターラクションつまり相互作用や、双方向性を発揮する場なのです。
 最後のEPACSの活動になりましたが、議題は、固有名詞の他言語への変換方法でした。あるいは、情報の発信でも結構です。議論をお願いします。
 菅井さん、前田君ご意見、反論をどうぞ。お持ちしています。
 蛇足ですが、菅井さん、メールを長い長いと嘆く無かれ。要は、内容があればいいのです。その内容に不適切な長さであれな無用の長物です。逆に、1行のメールでも充分な場合があります。以下例文です。
菅井さん、前田君。さあ、議論しましょう。
というのは、どうですか。なかなか、含蓄があるでしょう。今までも議論を踏まえて、この1行メールを送ったとしたら。でもこのように、含蓄があるとか、何とかということを書いている下2行が、蛇足なのです。菅井さん良くわかっているでしょう。
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Letter 059 「ファ」と「フ」と「ふ」それから「カメヤ-」
[Clubgeo 249] から転載
Makoto MAEDA <makoto@tecnet.or.jp>
2001年9月5日 16:26
こんにちは 前田です。この文書では,ポルトガル語の文字が遅れなくて残念です(島の名前など)。
 この文章が反論なのかは不明です。ここで判断してください
 それから,山下さん,時刻表ありがとうございました。

 ところで,今,けっこう情報が入ってきているのですが,その中で,ある本を気に入っています。「クレオール語と日本語」という本なのですが,本当に興味深いです(読む機会があったら読んでみてください)。
 その本を読めば分かるのですが,クレオール語は日本にも点在しています。そして,クレオール語誕生までの生い立ちや,歴史などがかかれています。その中では(多少文章を変えています)横浜が開港したときに,そこに住む外国人の発音を日本人が聞いて単語帳を作っていたという話なのですが,そこの外国人(実際には大部分がアメリカ人なので)が犬のことを呼ぶときに日本人には「カメヤ-」と呼んでいるように聞こえたらしいのです。そこで,日本の横浜の人々は,犬のことをアメリカでは「カメヤ-」と呼ぶのだと思ってしまいました。しかし,これは,現代で言う「come here(スペル間違っていたらどうしよう)」だそうです。しかし,耳で聞いたことは正しい!これが正当な発音ということで,間違っていないのです。じぶんたちは実際にその時代に外国人が犬を呼んでいるところを見たわけではないので分からないのですが,外人に,その会話を聞いた日本人が聞いた通りに「カメヤ-」といったら通じるでしょう。用は,今は,文字に侵されているということです。文字的に読んだら「カメヤ-」なんて、いえるはずがありません。でも,実は,聞いた通りに言う「カメヤ-」が一番よい言い方なのです。つまり,文字に書いて,そこから発音を考えてもいい発音はできることが少ないのです。(前後のつながりがありませんが)小出さんの場合も,「Hu」は,日本人が発音できるようなことを文字にそっくりに書いたんだと思います。もともと「Fu」はとても日本人の口からは発音しにくい音だと聞いています。それと同様に,「Fa」も,同じです。戦後まもなく(50年前後)英語を学んだ人々は,「Fa」を<ファ>と発音できずに<ハ>となってしまったといいます。だから前のことでも,発音しやすいように「Hu」を使ったのではないでしょうか。それから,ここは余分かもしれないのですが,昔の人は「メリケン」と,アメリカのことを読んでいたといいます。これは,「Amelican」だったと英語を学んでから知り,ショックを受けた人もいると聞きます。もともと、「Fu」や,「Fa」のような発音をもつ文字は考えもされず今までに会った文字を当てはめたのがローマ式(日本式)ローマ字なのです。
 と,ここまでの話でいいたかったことは分かりにくかったと思いますが,言いたかったのは次のようなことです。
 ・もし,日本語で,外国語の発音を表すときは,その言語を普段から使っている外国の人たちの発音を聞き,そこから,自分が聞き取ったものを書くのがよいのではないのか。ということ
 ・ローマ字や,英語はもともと日本になかったもので,まだ日本に着てからの歴史も浅いので,なじんでいない。だから,これから,どんどん世の中に広まっていく中で小出さんの言うようなMt.Fuji / Mt.ooyamaのような問題が解決されていくのではないでしょうか。でも,自分が思うのは,日本の山のことを言うときは,日本のことばで,Mt.などは使わずに,ただ,Fujisanや,Ooyamaのように,いちばんいってもおかしくない、現地の言葉でいうのが一番いいと思う(つまり,英語は,会話をするときに,意思を伝えるものであって,そこにある,地名や山の名前などは英語に変換する必要はない)。これからは,全ての人に会うような「ピジンクレオール語(もしかしたら,このメールを呼んでいる全ての人がこの「ピジンクレオール語」の意味がわからないかも)を作っていくのが大切だ,と思う。ピジンクレオール語は,英語だけを純粋に話す人も,少し頭を回転させれば解けるものだから,とても面白く,話しても気持ちいいものだと思う。
 しかし,自分が思う理想は,全ての「国」の人が,自分の祖国の言葉でしゃべり,相手も自分の祖国の言葉でしゃべる。これこそ国際化ということではないのかということです(理想中の理想ですが・・・)。
 以上,資料を踏まえた,意見(?)でした。
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Letter 060 言語変換の延長
2001年9月6日 10:07
前田様および皆様
 「[Clubgeo 249] 「ファ」と「フ」と「ふ」それから「カメヤ-」」を読みました。面白かったです。
 外国語、例えば、英語の日本語表記に関しての私の意見は、菅井さん的(?)です。外国語は、耳から入った発音通り「カメヤー」と表記するという前田案もありだと思います。また、書き言葉としても「カム・ヒア」「カムヒア」「カム ヒア」「かむ ひあ」もありだと思います。また、「Come here」あるいは「kamu hia」もありだ思います。相手の配慮を忘れなければ、日本の独自性が許すかぎり「なんでもOK」だと考えます。
 一方、日本語から英語に関して、何度もいうようですが、原則的には、「Mt. Fuji」はだめで、「Fujisan」か「Hujisan」しかないと思います。これは相手への配慮に抵触する部分です。しかし、これは原則で、(これも何度もいいますが)、言葉は使われ、生きているものです。ですから、一番使われているものが、間違っているとしても、標準となる可能性があります。
 それに、前田君は、「ローマ字や,英語はもともと日本になかったもので,まだ日本に着てからの歴史も浅いので,なじんでいない。だから,これから,どんどん世の中に広まっていく中で小出さんの言うようなMt.Fuji / Mt.ooyamaのような問題が解決されていくのではないでしょうか。」といいます。しかし、一度定着したこと変更するのには、20年や30年かかります。そのプロセスは、一人あるいはあるグループが必死に間違いを訂正して、それに賛同者を得て、世論となり、マスメディアが使い、そして教育として定着するまでの時間です。私たちは、世界で一番高い山は「エベレスト」と習いました。今の教科書です、どうなっていますか、知りません。それに、ネパール側の表記(何か忘れました)の定着には、ほど遠いですよね。一度、流布し「常識」となると、それを変更することは、多大な努力と時間が必要です。だから、富士山は私が生きているうちは、「Mt.Fuji」ままかもしれません。
 工業や技術に関することなどの世界標準の大切なことは、ISOという機関が決めています。それでも、一民間企業の基準が、業界では実質的な標準(de facto standard)となってしまうことがあります。インターネットなどの通信用の情報交換手順(プロトコルといいます)も、実質標準となっています。技術のような定量的な世界でも、標準化には問題が生じるのですから、言語のようなどろどろした世界では、標準化は大変なはずです。
 以上のようなことも、言語変換の延長の議論としましょう。
 前田君の理想は、「全ての「国」の人が,自分の祖国の言葉でしゃべり,相手も自分の祖国の言葉でしゃべる。」だそうですが、異「国」の人同士は、どうしてコミュニケーションをするのです。自国語をしゃべりあっていては、会話が成立しないと思います。教育によってそれを培うのも、やはり不可能のような気がします。日本のようにこれほど教育進んだ国の人間で、10年も英語教育を受けているのに、日常会話すらできない人が大半なのです。まして、多数の外国語を身につけるのは不可能でしょう。日本においてすらそうなのですから、発展途上国の外国語教育ともなれば、1ヶ国語くらいは何とかなっても、例えば日本語なんかは、多分教わらないと思います。まさに、夢のような「理想」でしょう。
 そのような常識を前提にして、それならば英語の国際語と位置付け、それもキチンと使える状態の英語を学べばいいではないか、というのが、今、日本の一部の指導者たちが考えている考えです。教育ですから、低年齢から、10年も英語教育をすれば、そのような人材が一杯生まれるでしょう。これがいいことなのでしょうか。20、30年前だったらよしと思います(多分そのような英語教師はいなかったと思いますが)。しかし、現状の教育状態をみると、できなくはないが、すれば、学力低下がさらに起こると思います。
 話しは、少し脱線しますが、私は、今の教育の学力レベルが低いと思います。我々の中学、高校時代と比べて、今の学生は、学力と知識量は相関しないかも知れないですが、知識量が非常に少ないと思います。それが、理科離れや学力低下などの教育上の問題を生み出している、一つの原因ではないでしょうか。詰め込み教育がいいとはいいません。しかし、そのような教育をくぐりぬけた人たちが、今の世界に伍する日本の科学や工業を生み出したのは事実です。
 今の教育は、知識を詰めこむことより、考え方や考えるプロセスを重視するのは非常に大切です。では、今の「考えるプロセス」を大切にした教育を実施したら、日本の未来は、今までの以上の発展を望めるでしょうか。
 以下も、持論です。言語変換の延長の議論と見なして下さい。今までは、東大、京大卒のような「オールマイティの秀才」をよしとする教育でした。でもこれからの教育は、「一芸に秀でた専門家」と「教養ある人材」(一般職、例えばサラリーマンや公務員など)とを養成するような分業化が大切ではないかと考えています。規格にはまった教育では、「教養ある人材」は養成できても、「一芸に秀でた専門家」は養成できないのではないかと考えています。今までの専門家は、「オールマイティの秀才」がから生み出されてきました。でも、もしかすると、今の教育は、「一芸に秀でた専門家」を養成する仕組みが無かったので、天才的な才能を持つのに、その優れた才能を、殺してきたかもしれません。
 そのような考えを根底にもって、私は、Club Geoのメンバーが、「一芸に秀でた専門家」(それを職業としなくてもよい)として育ってくれればと思っています。かなり脱線しました。でも、このようなことも、言語変換の延長の議論としましょう。
 ところで、前田君、前にも書いたのですが、クレオール語とは、CABO BERDEの「国語」に付けられた固有名詞ではなのですか。もしそうなら、「クレオール語は日本にも点在しています。」という意味がわかりません。それに、「ピジンクレオール語」の意味もわかりません。軽くでいいですから、説明して下さい。これも、言語変換の延長でしょう。もし、「クレオール語と日本語」という本を、本当に読んでほしければ、情報を流してください。もしかすると、平田さんは読むかもしれません。これもまた、言語変換の延長でしょう。よろしく。

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