Letter Box No. 4


Letters 「境界と越境」

目次

Letter 031 
Letter 032 
Letter 033 
Letter 034 
Letter 035 
Letter 036 
Letter 037 
Letter 038 
Letter 039 
Letter 040 


Letter 031 薄片& 次回の集まり&雑事
2001年7月7日 6:21
[Clubgeo 181] より転載
山下さま&皆さま
 暑さにうなだれながら昨日は楽しい薄片作り!汗をかきかきこすっていたら、薄片が消えててびっくりしました。薄片作り2度目にして初の大失敗!(石がやわらかいからいけないのよ!)しかもその石は富士山で採ってきたやつだったりして。後は山下さんにお任せする段取りで、昨日は帰ったのですが、おうちに帰って、やっぱり悔しいなあと思いました。で、もし急ぎでないならば、あの岩石チップ、取って置いてもらえませんか?今度伺うときに再度挑戦したいんです。
今度伺う日は、薄片が早いほうがよければ18日あたり、遅くてもよいならばClubGeo集会の日か愛媛以降になります。いかがでしょうか?
 HPの残りの写真2枚も、そのときに入れます。
 五合目の傾斜した路頭のことも抜けていますし。(ちなみにあのロトウの岩石名は何ですか?)
 ClubGeo集会の日程ですが、私が参加できそうなのは、7/20(金・祭)、7/21(土)、7/22(日)です。
 ついでに学校の予定は以下のとおりです。
授業・・・・・13日まで
テスト・・・・9・16・17日
レポート・・24日までのものが1つ、30日までのものが2つ
 愛媛を挟んでレポートの締め切りがありますが、できるだけ愛媛の前にすべてが終わるようにしたいと思っています。
―――お忙しい方は以下の文章は、暇な時にどうぞ。―――
 夕飯を食べて即寝てしまい、2時に起きて今のんびりとメールを書いています。先ほど改めて前田君と平田さんのやり取りを読んで、「かながわの自然図鑑」を片手にいろいろ疑問が出てきたのですが、遅いのでまた明日メールします。きっとロングメールになる気がしますので、先にお断りしておきます。
 薄片作りは楽しいですね。毎日薄片作りと巡検と資料整理なら飽きなく楽しいのになあ。実は4日の卒論ゼミで、山頭火のことは論文に一言も書けないことがわかってちょっと肩が落ちています。山頭火の卒論を書くために、日文に入ったのに…って。卒論は、私にとっては面白くないしあまり好みでない萩原朔太郎に1本化の方向です。
 結局、大学で手に入った目に見える形のものは教員免許だけ。見えないもので高校時代よりも深化したことは、物事の核を抽出して、細かい枠(学問的分野など)を越えたパターンを見出し、再び個々のレベルに立ち戻って、それぞれの具体的な独自性・特異性・キャラクターを観ていく思考でしょうか。それはそれで面白いし、収穫ではある。この見方で毎日暮らしているといろんなことが楽しいし、もちろん論文を書くときにも役には立つ。けれど、これは物作りにとっては方法論で、それ以上のものではないんですよね。
 ロングメールは避けようと思ったのに、やっぱり長くなってしまいました。電話も文字を並べるのも嫌いだけど、文字だとずらずら書いてしまうのが納得いかないなあ。同じ情報の発信手段でも音声言語(話すこと)と文字言語(書くこと)には、相性があるんでしょうか。
 近年(特にClubGeoの活動をはじめてから)、自分は文字言語型かもしれないと思うようになってきました。そうは言っても、一番楽しいのは発信ではなく受信。殊に博物館での受信は楽しいです。そうだ、夏休みに備えて新品のアンテナを買いに行かなくっちゃ!
 後もう1通打つのがんばろう。では、夜も明けかけて参りましたので、おやすみなさい。
    菅井美里

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Letter 032 [Clubgeo 181]への感想
2001年7月19日 17:17
[Clubgeo 189]より転載
菅井様
 まず、ご挨拶から。ご無沙汰してましたが、無事、カナダから戻ってきました。
 早速ですが、[Clubgeo 181]への感想の感想です。
 「山頭火のことは論文に一言も書けないことがわかってちょっと肩が落ちています。」残念でした。こういうと、ニュアンスが伝わりにくいのですが、本心からいっております。これが書き言葉の弱点ですかね。行間を読めといいますが、はっきりいっておいた方が、多分より伝わりやすいはずです。
 閑話休題。卒論についてです。これは菅井さんが、その学校、その先生、そのテーマを選んだことが、不幸だと思うしかないでしょう。残酷なようですが、結論としてそうなります。ここでの選択肢は限られています。(1)朔太郎をやるか、(2)卒論をやめるか、(3)誰がなんと言っても山頭火をやるか、のどれかしかないでしょう。
 多分、菅井さんは、決断されていると思います。それぞれの選択肢を考えてみましょう。もし、(2)卒論をやめる、なら、転校もありということです。それでは、今までの3年半が無駄になるかもしれません。(3)誰がなんと言っても山頭火をやるは、一種の賭けで、交渉した後の謀反にあたります。ですから、非常に危険性を伴います。つまり卒論を受け取ってもらえない。炉ツ論が無駄になることは、(2)に準じます。一番無難なのは、(1)朔太郎をやる、ことでしょう。私の考えは、朔太郎で卒論をやれば良いとおもいます。
 朔太郎をやっても、少し回り道なるかもしれませんが、多分無駄になはならないと思います。無駄になるのは、本人が無駄だと判断してしまうことです。ですから、(2)でも(3)でも、実は、考えようによっては、無駄ではなくなるということです。まあ、投げやりなようですが、無駄も、もしかすると、必要かもしれません。考え方次第です。
 次の、「見えないもので高校時代よりも深化したことは、物事の核を抽出して、細かい枠(学問的分野など)を越えたパターンを見出し、再び個々のレベルに立ち戻って、それぞれの具体的な独自性・特異性・キャラクターを観ていく思考でしょうか。」つまり、より深く物事を考えるということでしょうか。「言うは易し、行うは難し」でしょうか。私は、最近特に、より深くものごとを考えるようなりました。これは、そのことを一生懸命考えていると、おのずからそういうやり方になります。ですから、「深化」が重要なのです。言葉でしか表現できなくても、「深化」してきたことは、自分にはわかるはずです。変化してきたことが。
 「大学で手に入った目に見える形のものは教員免許だけ。」形あるものを望めば、実りは少ないこともあります。でも、当然のことですが、目に見えるものだけが、すべてでは有りません。心が目に見えますか。「深化」が見えますか。でもそんな見えないものに、形ある体が弄ばれているのです。
 「これは物作りにとっては方法論で、それ以上のものではないんですよね。」ものの一つ一つのつくり方は、単に経験、ケーススタディに過ぎませんが、それが、一般化され、帰納され、方法論となれば、それは非常に有効な道具となります。この一般化が大切なのです。その方法論は、非常に演繹的に利用できます。その方法論は、もしかするとものつくりだけで、生き方まで演繹できるかもしれません。それほど重要性があるかもしれないのです。
 さて、もう夕方です。ここで終わりとします。

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Letter 033 質問&前田君と平田さんへのながーい一言
2001年7月9日 3:59
[Clubgeo 183] より転載
 皆様、暑い日差しにやられていませんか?昨日はさすがにバテた菅井です。
 今回はまず、2つ質問が出てきたので伺います。
@火砕岩って、火山砕屑岩の略称ですか?
A『かながわの自然図鑑」P135のペグマタイトの説明にでてくる「有用元素」ってなんですか?高校の化学の図説にものってなかったです。よく使える元素って意味になるのかしら?
 引き続きまして、テストも終わってほっと一息をつきながら石を眺める前田君のメールを読んで思ったことをちょっと一言。あくまで感想ですので、前田君を槍玉にあげようっていうことではありません。ご注意ください。 (またネタにされている!なんて思わないでくださいね。ご愛嬌です。)
―――――――――――――――――
*忠告*
 長いです。また2000字超えています。というより3000字近いです。体調のよい方と暇な方のみお読みください。発言内容以外の責任は一切負いません。ご了承ください。
―――――――――――――――――
「分類するときにそういうあいまいな名前を使うとは思えないが、それではないか。と、いうことでした。しかし、半花崗岩という名前があまりに中途半端でわかりにくかったので、そういう分類の仕方を普通に専門家の間でもするのか。ということを質問にもってきました。」
 「あいまい」とか「中途半端」な分類の仕方に納得がいかないようですね。でも、よーく考えてみると、はっきりと分類・区分されているものってどれだけあるのでしょうか。分類・区分っていうものは、人が勝手にするものだと思います。物事を把握するために。しかもそのやり方は結構無理やりなこと(実際に合わないこと)もあって、その結果、いろんな問題が出てくる。たとえば、単純に「男/女」の枠組みでは捉えられない人があるし、「日本人/外国人」ではハーフの人が抜けてしまう。数が多いのを基準に分類っていうものはなされるのだと思います。…だから、「あいまい」「中途半端」なことはあって当然だし、あるべきだと思います。
 これはちょっと偏見かもしれませんが、科学という学問は「あいまい」「中途半端」が
好きではない領域ではないかと思っています。たとえば、「半花崗岩」あるいは「アプライト」加えて「半深成岩」なんていう名前が、私には物事を切り刻んで整理したい「ヒトの本性」の一つの表われに感じます。(前田君は「反花崗岩」をあいまいだっていうから、科学の目を持ってるということになるかな?)
 例えばここに、AとBという、素材が一緒でも受けた作用(変化の仕方)が違うことによって別物になったものがあるとする。そのAとBの間には無数の、AにもBにもなりきれなかった、中間的な存在があるとする。その中間的なものに関して、Aのほうに近いもの・AとBの本当に中間のもの・Bのほうに近いものというように、これもどこかで区切りをつけてしまう。100%Aと100%Bは連続したものであるのに。そしてさらに、それぞれ分けたものには「名前」をつける。そのものを認知した・把握したという証として。―――こういうのが科学の1面に顕著に表われていると思います。(学問というもの自体が、茫洋としたものをクッキリハッキリさせる目的をもって存在しているとも考えられますが。)
 もちろん「名前」をつけることは、ヒト同士のコミュニケーションを円滑にするために必要なことだと思います。「Aのほうに近いもの」って言うよりも「〇〇」とはっきりした名前を使ったほうが、わかりやすいでしょう。ただし、「名前」をつけることには功罪(悪いこと)もあります。
 功罪その1は、「名前」をつけてしまうことで「名前」を知らないor付いていないものが見えなくなること。(だから「新発見」って言うのは大変なんだと思う。)
 功罪その2は、「名前をつける」という行為によって、「名前を付ける側/付けられる側」が生まれ、「名前を付ける側」に「力」が付与されることです。
 功罪その1は野に咲く花野を見たときに、知らない草を雑草としてしまうことに同じです。非常に失礼な話になりますが、そこかしこにある岩石は、普通の人にとってはみんな「石」でくくられてしまうものだろうと思います。言われれば、違いはわかるんですがね。雑草から名のある草にするようなことをしているんだ、と巡検に行くたびに思います。石の由来を知ったり考えることに加えて、こういうことを考えさせられることも巡検の楽しみですね。
 功罪その2は、「白人/黒人」の関係を考えてみると良いかもしれません。例えばアメリカの公民権運動のとき、「黒人」は自らのことを、「白人」に付けたられた“black”ではなく“negro”と呼びました。“negro spilitual”と自分達の魂の叫びを訴えるのにも使われました。一方で、カーマイケルのような過激派は、「白人」に虐げられた歴史を呼び覚ますために、自分達の力や行動を“black power”とあえて言うことで、民衆の士気をあおりました。
 なぜ「黒人」がここまで巧みに“black”と“negro”を使い分けたのか。“black”と“negro”では、名づけた人が違うからです。そして、「白人」によって語られるだけで、自分の口で思いや意見を語ることのできなかった“black”が、初めて自分達の口で語る自由を勝ち取るとき、“negro”として生まれ変わったのだろう、と私は思います。
 これを「石」に置き換えたらどうでしょう。南足柄巡検のとき、「石のたたき方が下手だと鈍い音がして、きっと石も痛かったろうなあ」というようなことを言った覚えがあります。平田さんはこれに対して「石も痛いって思うのかな」ってお返事をくださいました。あの時、私は平田さんが「石」を無機的で意思や感情を持たない、一般的な定義としての「石」としか向き合っておられないと思いました。「石」は確かに、脳も心臓もないです。だから考えたり思ったりすることがないと考えられるわけです。でも、それはあくまでヒトが勝手にそう思っているだけではありませんか?ヒト以外の動植物が声や超音波や信号で仲間と連絡をとったり、獲物をおびき寄せるようなことをしていると、近年わかってきているようですが、それと同じことが「石」では言えないでしょうか。まだわかっていないだけかもしれないって思えませんか?
 「石」の持っているキャラクターは、化学組成を調べたり地球の動きを考えたり、「科学的な眼」をもって「石」と接すればわかるでしょう。だけど、「石」の気持ちはわからない。だって、わかる方法が今のところはないんですから。―――だから私は、ヒトの言葉が通じないものに接するときは、ヒトと同じような感覚・想いを持った相手として向き合っています。私は、小4くらいのときからそんなふうに思っています。中学に入ってから、“black”を生み出すようなことは極力避けたいと思うようになりました。
 第一、ヒトの赤ん坊とかペットと接するときは、言葉の通じない相手でも通じるかのように接するのに、動かない植物や石となったら途端にそうはできなくなるっていうのもおかしいように思います。
 (ぁ、平田さんを問い詰めようとか攻撃しようとかは思っていません。私より平田さんのほうが感覚的に普通だと思いますし、平田さんがあのように言ったからといって激怒しているわけでもありません。あくまで、前田君同様、私の思ってることを引き出すキーとして、平田さんのご意見が思い浮かんだだけです。むしろ、そういうキーを出してくれる人がいることに、私はいつも感謝しています。有難うございます。)
<最後に脱線>
 私の思うこと・考えていることは近代化された社会では少数派で、異端かもしれません。笑われちゃうようなことかもしれません。でも、原始的主教を持っている人たちにはきっと通じるかもしれないと思っています。身の回りのいろんなものに神やら聖霊やらが宿っていると考える人たちは、木や石にも気持ちがあると思っているはずだからです。…とすると、日本だって例外ではない。今でも、大きな木や石を「ご進退」として祭っている神社があるわけですから。そう、八百万の神が日本にはおはしますね。信仰する如何を問わず、日本人には八百万の神を感じる心があるはずだ!ならばきっと、日本人にも私を理解できる人がいるかも!?
―――――――――――――――
 以上、前田君のメールを糸口に、あいまいなこと→名前をつけること→名前を付けることの功罪という半ば無理やりな筋立てを、「石」を関連させながら、平田さんの一言にも触れて書きました。だいぶいろんな話がごちゃ混ぜに出てきた感がありますが、わかったところはありましたか?ロングメール記録を塗り替えた今回のメールにお付き合いくださった皆さん、毎度ながらお世話様です。(読み終わった皆さんに拍手!!)
 ちなみに前の記録は2430字で、今回は、2870字です。440字更新です。原稿用紙1枚ちょっとかな。これが学校のレポートにも生かせればいいのですが、そうもいかないのが悲しいです。
 では、明日も学校は厳然と存在し、授業もテストもありますので夜更かしはこの辺でお開きにしましょう。
おやすみなさい。
             菅井美里

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Letter 034 名前と分類
2001年7月22日 5:51
菅井様
 菅井さんの「長い一言」を、体調も良くなく、暇もないですが読みました。昨日と今日(7月22日)も家族サービスです。昨日は、幕山の川に行って水遊びです。8時前位には着いて、9時過ぎには帰ってきました。菅井家と違って小出家は、早寝は早起きです。昨日は8時前に寝て、今朝は、4時前に起きました。今は午前4時過ぎです。少し時間ができましたので、菅井さんの長ーいメールに、長ーい返事をします。推敲してないので誤字脱字ありです。「体調も良くなく、暇もない」は読むのをやめましょう。
 菅井さんのメールは、長かったので、整理します。
 名前を中心に展開していました。(1)あいまいなものに名前を付けるということ、(2)その名前を付けることには2つの功罪ではなく罪があること、(3)名もなき「石」に対する思い、(4)それは原始宗教に通じることでしたでしょうか。順番に考えていきます。
(1)あいまいなものに名前を付けるということ
 まず、あいまいなものに名前を付けるということです。「分類・区分っていうものは、人が勝手にするものだと思います。」その通りだともいます。それが、今までも人のやり方です。そして、多くの名前の知っていること、多くの名前を付けること、それが、物知りとか、人類の知的遺産を増やしてきたとされてきました。
 この方法は、成果を挙げました。例えば、菅井さんの例のA、BとABの各種の混合物です。鉱物の世界ではよくあります。固溶体(こようたい)と呼ばれるものです。鉱物の世界ではAとBは端成分(たんせいぶん)と呼ばれます。AとBの間の混合物は、自由に例えばAの比率がから100%まで変化ですることがあります。実は私がとくみる鉱物の大部分はこの性質を持っています。かんらん石(端成分はフォルステライト、ファイヤライト)や単斜輝石(ディオプサイト、ファロシライト)、斜長石(曹長石、灰長石)などがあります。そして、その混合比によって、すべて名前がついてます。当然、分析する以外にも違いはあり、肉眼や顕微鏡で見分けることができます。その名前は、機械的についている反面、そのような分類をすることによって、かんらん石でも、フォルステライトは超塩基性岩に、、中間のかんらん石は玄武岩や安山岩に、ファイヤライトはある特殊な条件で形成される酸性岩にというように、岩石のでき方を反映したものとなっています。つまり、科学的により詳しく分類し、そこに名前を付けることによって、それ以上の付加価値を生み出すことあるのです。果学区は別に付加価値を生むために分類し名前を付けているのではありません。そのようなことが結果としてわかってきたのです。
 「名前をつけること」すなわち、善でした。科学の世界では、「すべての物事は、人間に理解できるはずだ」、そして、「結果があるとすれば、原因は突き詰めれるはずだ」あるいは逆に「原因がわかれば結果もおのずから理解できるはずだ」という考え方です。20世紀は特にその傾向が強かったともいます。このような考え方を要素還元主義、あるいは単に還元主義とも言います。「名前を付けること」を同じ範疇で考えられるのではないでしょうか。「名前」を「還元された要素」とすると、そのまで、理解したという意味です。還元主義は、今までも、多分これからも科学の主要な流儀となると思います。
 ただ、これに対しては、現在、批判的な考えがあります。私もその傾向があります。どういうことかといいますと、要素に還元しても、見えないことがあるはずだということです。よっく引き合いに出される例ですが、生物はDNAを中心として理解されています。でもDNAを完全に理解しても、動物の行動や社会のことはわかりません。私はそれを学際化(多くの学問分野を統合的考える)よ総合化と呼んででいます。
 そして、生物学と地学にはその傾向が強いと考えています。博物館でおこなっている自然史という学問体系は、その最たるものです。中でも地学あるい地質学は重要であると考えていいます。なぜなら、要素還元主義的やり方では一番発達が遅れていた学問分野です。それの博物館でも、例えば動物なら、動物園で、植物なら植物園で、昆虫なら昆虫館で、魚類なら水族館でといきているもののそばに、現在の博物館的な資料があれば一番有効です。でも、地質学は生きていません。そんなものは、いわゆる自然史博物館でしか、生きていけない分野なのです。ですから、自然史の中では地質学は死活問題として、あるいは前向きに自然史の中核としてがんばって総合化、学際化を図る必要があります。
 少し美里流に脱線しました。話を戻しましょう。
(2)その名前を付けることには2つの功罪ではなく罪があること
 菅井さんは、功罪といわれましたが、明らかに罪の部分ですから、ここでは罪とします。罪1は、「名前をつけてしまうことで。名前を知らないor付いていないものが見えなくなること」で、罪2は、「名前をつけるという行為によって、名前を付ける側に力が付与されること」としました。
 罪1は、そうでもないと思います。菅井さんの例でも、花と石があり、名前を知らないに人には、だたの花や石ですが、実はもっとそこには細分化された名前がということです。でも、名前には限界があります。つまり、この世の中は、有限のもの、つまり有限の名前しかのです。それは、人はものの名前のつけ方に規則を設けているからです。その規則に基づいて名前をつけています。ですから、有限なのです。あるいは有限の名前にするためにそのような規則を設けているのかもしれません。
 石だって、中間的なものや、地域ごと、年代ごとに、それぞれ別の名前がつけることができます。実際、かつてはそうされてきました。しかし、それは労多くして益の少ないことで、重複、混乱、無意味なものまでも含む非常にややこしい名前でした。同じものでも、研究する人によって、地域、時期、年代によって、別の名前が付いていまっていたのでした。そのため、統合化されて、現在のよりシンプルで、誰がやっても同じ名前がつく方法となりました。
 鉱物にしたって、有限しか名前がありません。現在は4000個程度見つかっていますし、今後も見つかるでしょう。でも有限です。鉱物は、自然物の結晶であること、定性的性質を調べことができるほどの大きさが必要なことは前提です。その前提に基づいて、ある原則に従って名前を付けます。その原則に従えば、自然には有限の鉱物しかないのです。
 罪2についてです。石の例ではないのですが、東南アジアの未開の地で、鳥か植物か忘れましたが、原住民がしっているものの名前は、科学者が科学的分類体系に基づいておこなった分類名と比べたとき、ほぼ同程度の名前に達したといいます。つまり、科学的分類の知識がなくてもものを詳しく見るとある一定の分類体系に達するということです。人は、自然発生的名前を付けてきたので、それは、生活に必要で、多くの名前を知っていた方ががより生活に有利だからです。
 しかし、ことを人のレベルに移すと問題が生じます。個々の人に名前を付けるまでは良しとしましょう。でも、その名前の上の統合的にグループ分けをしようとするときに問題が生じます。
 それは、人種差別に通じるところです。菅井さんも指摘された通りです。人間の進化を考えるときも、人種差別というもんだ生じることがあります。どういうことかといいますと、人間は、大きく分けても白人、黒人、黄色人種がいます。あるいは、もっと細かく民族レベルまで分けることも可能です。
 人間の進化を考えると、これらのうちどれが進化しているかということを考えることになります。人類の系統樹です。ミトコンドリアを利用して人類の起源を探ることがなされましたが、これおも一種の系統の解析にあたります。生物では系統樹というものを書くことがありますが、どの種がどこで、進化してきたかということを示す図です。
 単に進化を調べるだけならいいのですが、ここに、よりあとに進化したものほど進歩しているという考えや、その種の方が進んでいるというような考え、つまり「優生学」というべきものが出現してきます。
 「優生学」とは、F.ゴルトンが1883年に提唱した考えです。優生学とは、人類にとって好ましい遺伝子を増加させ、好ましくない遺伝子を減少させるということを研究するような学問でした。その学問によって、好ましくない遺伝子を減少させようという法規(優生法)が各国で施行されたことがあります。ナチスドイツのユダヤ人狩りは、この法律に基づいています。それは、政府が国を挙げて政策として行ったことです。
 このように、こと人が絡むのろくなことは生じません。でも他の生物に関しては同様のことを無意識にしています。では、人に関する分類も解禁すればよりフェアなのですが・・・・。
 とここで、次男が起きて騒ぎ出しました。もう終わりにします。
(3)名もなき「石」に対する思い
(4)それは原始宗教に通じること
は、次の機会です。
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Letter 035 石と心と
2001年7月28日 7:28
[Clubgeo 194] より転載
菅井様
 昨日は、時間切れで「長ーいメール」の半分しかかけませんでした。今日はどこまで書けるやら。今朝も、4時起きです。しかし、今は5時です。もう次男は起き出しました。
 さて、(3)名もなき「石」に対する思い、です。
 前の例ですが、岩石の名前が、科学的に、ある規則で整理されたのですが、生物はもともと分類基準は自然に生まれているようです。
(と、ここまで書いたら次男が騒ぎ出したので終わりにします。続きは四国から帰ってから)
(時は流れて、今日は7月28日、朝7時。続きです)
生物の名前についてある本に、東南アジアのある島の原住民の鳥の名前に対する調査の閣下が載ってました。それによると、原住民のその地域に住んでいる鳥の分類は、科学者が科学的にしたのと同じ(80%以上:不確か)結果になったといいます。場合によっては、原住民のほうが、より細分していたとか。つまり、生物の分類に関しては、人間は詳しく見ることによって科学という方法ではなくても分類できるということです。
 当然、生物以外でも同様のことができるはずです。例えば、日本の江戸時代の山師たちは、精錬された金を見たら、どこの鉱山のものか見分けることができたといいます。自然物をよく見れば、かなりのレベルの識別、つまり名前を付けることが熟練者には可能であるということです。
 でも、科学というのは、熟練者でなくでも、誰でも科学という方法を使えば、熟練者が分けたほどのレベルに達することができるのです。熟練者は経験やカンとし身につけた方法論を、科学は庶民のレベルまで引き下げたのです。これは進歩でしょう。
 さて、「石の気持ちはわからない。だって、わかる方法が今のところはないんですから。だから私は、ヒトの言葉が通じないものに接するときは、ヒトと同じような感覚・想いを持った相手として向き合っています。」です。善(よ)き哉(かな)です。
 その感覚や想いを理解しようとする気持ち。それは、熟練者が、自然物をよく見て、よりよく理解するという道に通じることではないでしょうか。石と常にその気持ちで接してみてください。もしかすると、我々のように簡便な科学という方法でしか石に接してない人間とは違う石との接し方に通じるかもしれません。例えば宮沢賢治、例えば石愛(め)でる姫(お分かりでしょうか、虫愛でる姫のもじりですよ)、たとえば石を詠う山頭火に通じるのではないのでしょうか。石を愛し、それを詳しく知ること。それは我々Club Geoの目指すところです。
 私たちClub Geoは、石の専門家を養成できればと考えていたのですが、このような石との接し方の専門家もいてもいいはずです。科学と芸術は、宮沢賢治が示したように、共に歩んでもいいのです。石を愛でて、芸術の対象とすればどうでしょうか。Club Geoの石の専門家(芸術部門)もありです。ちなみに来年の夏の私たちが担当する特別展は、科学と芸術の接点のようなものを模索できればと考えています。まだ、十分に煮詰まっていませんが、このような内容もありでしょう。メモしておきます。
(またもや次男乱入で終わりです)
(4)それは原始宗教に通じること
は、また次回です。
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Letter 036 原始宗教から芸術に
2001年8月1日 4:44
[Clubgeo 202]より転送
菅井様
 分割回答の最終回です。
(4)原始宗教に通じること
 「私の思うこと・考えていることは近代化された社会では少数派で、異端かもしれません。」といわれましたが、今まで長々述べてきたように、けっして異端ではないと思います。それに、「すべての自然物に心がある」、あるいひは「精霊が宿る」というような考えは、その善し悪しは別にして、もしかすると、地球環境を考える上での、重要な視点となるのではないでしょうか。かつて、日本人は、638年に仏教が伝来しても、キリスト教が伝来しても、維持的に熱病のようにその宗教にかぶれることあっても、いつのまにか、八百万の神々の中に、その神さまたちを取り入れてきました。もしかすると、日本人は一番宗教に対して、キャパシティーが大きいのかもしれません。そのような人間が、自然と人間の関係を考えるのが本当は一番適切なのかもしれません。でも、日本人とは、熱しやすく冷めやすいようなので、地球環境問題などのように長期的展望の必要なものには不向きなのかもしれません。
 脱線しましたが、石を擬人化して考えたり、石に心があるとして考えることは、決して悪いことではないと思います。それをどう昇華するかが問題です。単にそう思いましょうとうだけでは、発展がありません。まさに原始のままです。
 やはり、その視点から、何かを生み出してこそ、その視点の重要性が活きるのです。上の例で、地球環境問題を出しましたが、菅井さんが、石の心を認めることから、何を生み出すかが、重要だと思います。
 望むらくは、そこから芸術への昇華です。このような視点は、私たちのように石を、唯物的存在、あるいひは即物的存在ととして捉える人間には、なかなか生まれないものです。ぜひ、菅井さん、Club Geoの芸術担当してがんばってください。とりあえず、このメイリング・リストが、その発表の場であってもいいと思います。
 以上長々としたメールとなりました。理解できなかったかもしれませんが、菅井さんのロングメールに対する私の考えです。

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Letter 037 書くのがむつかしい。
2001年7月21日 21:53
小出良幸様
 この頃夏バテ気味で食事のいらない日が続いています。
 愛媛に行くまでには治るといいなあと思っています。
 小出さんは夏バテしてませんか?
 大学2年のとき、「道徳教育の研究」という授業で、「人間とサルの違いは何か」を考える時間がありました。その先生は専門が哲学だったからかもしれませんが、「死を考える(意識する)」のが人間の重要な特徴だと仰いました。なるほどそのとおりだと思いました。小出さんも、「死を意識する」ことによって「生を意識する」ようになったということでしょうか。「人間」ですね。
 また、同じ2年の後期に「日本文学史」の授業で、「そのようにしか生きられない人生」ということを仰った先生もいらっしゃいます。つまり、「どんなふうに生きようとしても、結果としてはその時々でなるようにしかならないんだ」、とか、「たとえ他の人から見て非道徳的な生き方の人間であろうと、その人にはそういう生き方しかできなかったんだ」ということです。
 しかし、それは「ダカラショウガナイジャン」的な諦めの境地ではないと思います。
 生きた結果(人生)に価値をつける権限は、誰にもないわけで、その人がどのような生き方をしても、正当な評価は誰にもできるはずがありません。だから、たとえ結果的に「そのようにしか生きられない」としても、人のことなんて構わずに自分で思う方向へ進んでいくことが大切だ、っていうことだと思います。
 「人のことなんて構わずに」というと語弊があるかもしれませんね。生き方については人を支えとしない、ということです。だって、小出さんが奥さんや子供さんを構わずに生きていたら困りますもの。
 小出さんのメモに「精一杯の今の積み重ねが、/悔いのない人生。」とありましたが、「精一杯」が「悔いのない人生」を作っていくのは、半分本当で半分嘘だと思います。
 「精一杯」になることは、周りが見えなくなる可能性が大きいです。ちょっと自分の生き方を「引いた目」で見ることがなかったら、たとえ「精一杯」でも最善を尽くしたことにはならないと思います。「精一杯」は「できる限り何かをすること」。つまり、「無我夢中」も「最善を尽くすこと」も「精一杯」に入るわけです。「無我夢中」は一見格好よさそうだけれど、その外側にいる人のことを考えると賛成はできかねます。周りの人に迷惑がかからない「無我夢中」ならOKです。周りのことを気にしすぎるのもあまりよくありませんが、気にしないよりは「人間的に」マシかもしれません。人はひとりでは生きられませんから。自分の思いを一番に考えつつも、周りの人の思いも理解し、バランスを取って生きられたら、それが「最善を尽くす」ことになるでしょうか。
 「生と死と」のメールを読んで、「死生学」を考えあぐね、何度も推敲するうち、早6時間以上がたっています。いろいろ思うことはあるのですが、何度書き直してもすっきりしません。だから今回のメールは、わけのわかりそうな所を切り取りました。
 ただ、最後に一つだけ付け加えるならば、私にとって、死はいつも身近なものです。私はいつ死んでもいいと思って生きています。また、強い感情を持った時、例えばとても楽しいと思った瞬間、楽しいと思うのと同時に、「今死ねたらいいのに」と思います。(意識的にそう思うのではなく、自然とそう思ってしまいます。なぜかそう思うのかは、よくわかりません。)加えて、知らないことがあまりにも多いので、何かに触れるたびに「こんなに面白いことがあるんだ!」と思います。そのため、「今死ねたらいいのに」は、ほぼ毎日、思うことです。
 さっぱりわからない話になったかと思いますが、解読できますか?
 では、愛媛に備えて今日はここまでにします。
    菅井美里

*追伸*
 小出さんはよく「菅井さんラシイ」とか「ラシクナイ」と私にいうような気がするのですが、私って、どんな人でしょうか。
 私は自分が好きなこと・やりたいことだけをやって生きてきました。だから、いつも楽しくて面白い。けれども、大失敗をしたときには他の人と同じように落ち込むわけで、高校のときの現代国語の先生は、凹んでいる私を見て、「菅井さんラシクナイ」と仰いました。凹んでいる人を励ますときの常套文句が「ラシクナイ」なのかもしれませんが、「ラシイ」とか「ラシクナイ」と言われたのはそういうときくらいです。
 小出さんのいう「ラシイ」「ラシクナイ」はこれとちょっと違う気がします。どうでしょうか。



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Letter 038 講演要旨誤変換まとめ
2001年7月30日 1:43
小出良幸様

 講演要旨の気になったところ(誤変換等)を全部あげてみました。
(略)
 以上、石関係の言葉はわかりませんが、誤変換?と疑われるところや誤読されやすそうな所をピックアップしてみました。あまり役に立ちそうなことは書きませんでしたが、前田君の指摘に続き、まとめてみました。
 誤変換では人のことを言えないスガイミサトより
P.S.
 金土と涼しかったのに、だんだん暑くなってきました。3月の仙台生まれには辛い暑さです。城川に行って夏バテは治りましたが、またなりそうです。小出さんもお気をつけて。それと、小出さんから分割返信頂いているメールへの返信は、(4)が届いてからまとめて送ります。


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Letter 039 私は無我夢中
2001年8月1日 6:19
菅井様
 暑いです。今朝は、4時過ぎに起きたのですが、もう暑いです。今日は、休みを取りました。湯河原の町の3日間にわたる祭りで、今日は自治会の方に地区の山車が来ます。私自治会の副会長ですので、その接待をしなければなりません。山車のほかに消防車もくるので、子供たちも保育園を休まして、今日は、小出家は祭りです。
 論文の間違いている箇所、修正しました。ありがとうございました。前田君と菅井さんの第1号の修正メールで大半直しましたが、一箇所だけ、修正してないところがありました。発想する直前で見つかってよかったです。
 さて、「人間とサルの違いは何か」についてです。少し違いますが、人間と、人間以外の西部とは本当は何が違うかということを、生物の学芸員たちと話したことがあります。でも、いろいろな特徴を考えてのですが、どれも、人間固有のことはなかったのです。そこで、唯一上げられたのは、「死を悼む」ということでした。死を感じることは、動物にもあるよう思えます。たとえば、草食動物が肉食動物に襲われたとき、自分以外の仲間がやられると、もう自分が襲われないことになります。そして、仲間のやられる瞬間を、みんな興味深げに見ています。何を考えているのかはわかりませんが、好奇心なのかもしれませんし、あるいは、他人の死を感じているかもしれません。つまり、他人の死を悼む。そこから、自分の死を予測することになります。しいては、生を見つめることにもなります。
 「私はいつ死んでもいいと思って生きています。」私は、少なくとも今はいやです。多分いつでも、「今死ぬのはいやだ」と思っていると思います。でも、死から逃げることはできません。では、どう死と立ち向かうかです。私は、「精一杯」、「無我夢中」するしかないと考えています。周りに迷惑をかけているかもしれません。でも、死と立ち向かうには、無我夢中に生を全うするしかないと考えています。できる限り周りに気を配っています。でも、無我夢中ですので、皆様に少々迷惑をかけるかもしれませんが、それが、私の生き方です。
 そして「ラシイ・ラシクナイ」ですが、菅井さんは「私は自分が好きなこと・やりたいことだけをやって生きてきました。」といいます(これは無我夢中ではないのですよね?)。でも、ある人を、当然回りの人が見ています。そしてそのときこの人はこういう人なんだという評価を人それぞれするわけです。それが、当人にとっては大きな迷惑、外れているかいう感想にかかわりなく行われるものです。「菅井らしさ」ということに疑問を感じたようですが、そんなに深い意味はありません。
 それと、「地球のささやき」の読者が、私たちの「Metemorphic」のホームページを見て、菅井さんとの会話を読んだそうです。そして、非常に感動されていました。このホームページはまったくどこにも周知していません。唯一入ってこれるのは、私のホームページのトップページからだけです。そこを、この人は時々覗いてそうです。そこには、私の「思いつくまま」というエッセイが日々更新されているからです。多いとき1日に2度以上更新されます。でも、今度、博物館にこられたら、その方のメールをお見せします。
 では、明日、博物館で。今日は私は、休みを取っています。自治会の祭りのためです。自治会の副会長をしているので、祭りの手伝いです。町の伝統的な祭りなのですが、町内会では、山車をしたて、消防車と一緒に、我が団地の山の上まで登ってきてくれます。ですから、テントをはって2、30分接待します。あとは、近くの人、10人程度が集まって、軽く飲み会です。真昼間ですから、少々です。子供は、別荘団地なので、すくなく、2、3家族です。でも、うちの子たちは、楽しみにしているので、保育園を休まして、祭りです。小出家は祭りです。8月3日は、湯河原の祭りで、海岸で花火大会で、多分人出が多そうです。
 ではまた。


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Letter 040 死ぬのはイヤ?!
2001年8月2日 23:08
小出良幸さま
 今日博物館へ行きましたが、久しぶりのアナログワークでチョット息抜きできてよかったです。これからHP作りに向けてギアチェンジをしなくてはならないのですが、この頃どうも体力がなくて、気を抜くとヘバッテいます。
 さてさて、小出さんは「死ぬのはいやだ」と思っているそうですが、私の中に100%「いつ死んでもいい」という気持ちが満タンかと言うと、そうでもないような気がします。前にもチョット書きましたが、死にかたに「欲」があります。私は、すぱっと潔く死にたいと思っています。もしそうではなく、だらだらと死ぬ(例えば植物状態とか)のであれば、その死にかたは私の望む死のあり方ではないです。生きる気力もない状態で、人に生活のほとんどをお世話されながら生きるのは御免です。だったら死にたくないとも思います。加えて、意思に関わらず、細胞はギリギリまで生きようとするようにできているとも聞いたことがあります。死の直前に最後の生きる力を振り絞ることは、人にも、他の生き物にもあることです。私にも当然あるだろうと思います。だから、「いつ死んでもいい」と全私が思っているとは言い切れません。
 今夜も、セミが鳴いています。その声は、鳴くというより、泣くに近いような気がします。聞くと寂しく思います。彼らも、彼らなりの生を全うして死んでゆくのだろうと思います。でも、照りつける太陽の下で、コンクリートのフライパンに亡骸を焼かれているのを見ると、「せめて土の上で死なせてあげたいな」と思います。先日、我が家に息絶え絶えのセミがやって来ました。私は「土の上で・・」と思ってベランダから放ってやったのですが、母曰く、「アスファルトの上で焼かれるよりも涼しいベランダの日陰で逝きたかったのかもよ」ということでした。現実的に、家の周辺は舗装されている所ばかりですから、母の論理のほうが通っています。夢・希望と現実の差に、難しいなあ、と思いました。そして、アスファルトや木などで舗装されていない、地肌の上を歩きたいナとも思いました。
 「死んだ」ばかり言って嫌な感じがしますが、今日、家の金魚が1匹死にました。享年7歳くらいです。10数匹いたお祭り金魚の中で、生き残った3匹のうちの1匹です。一番身体は小さかったのですが、今朝までは元気だったんです。昼頃に、横向きに浮いている所を母が発見しました。マンションの庭に埋めてあげようと思っています。7年も生きれば大往生かもしれませんが、やはり寂しくなります。
 「死を悼むこと」が人間の特徴かもしれないという話がありましたが、死を悼むことを英語でmourningと言いますね。いつこの単語を知ったのかは忘れましたが、この単語を聞いたとき、morning(朝)と発音が同じことに衝撃を覚えました。「死」が生の象徴である「朝」と同じ発音なんだ、って。(綴りだってUが入るか否かの違いですが。)mourningとmorningに因果関係はないと思いますが、感慨深くなってしまいます。
 「人に迷惑をかけない無我夢中」は語法としては間違っているかもしれません。でも、mourningとmorningのように、何ら論理的正当性のないものでも、勝手に思わせておいてほしいことが、人にはあると思います。数は少なくても、私にはあります。(ほとんどのことは、論理的正当性を重視しますが。とはいえ、自然科学的論理と人文学的論理が対立するときは、後者に立ちます・・・。)
 別件ですが、このメールのやり取りを見ている人が出てきたことを複雑な気持ちで受け止めています。嬉しいとか嬉しくないというのではなくて、なんだか変な心境です。見られても良いことを書くという前提があるので、見られて一向に構わないし、それで良いんです。どういう気持ちか自分でも説明がつきません。で、次回、このことを書くことにしましょう。
     スガイミサト

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