Letter Box No. 3


Letters 「境界と越境」

目次

Letter 021 
Letter 022 
Letter 023 
Letter 024 
Letter 025 
Letter 026 
Letter 027 
Letter 028 
Letter 029 
Letter 030 


Letter 021 私の講義or抗議?

2001年5月31日 14:49
菅井様
 メールマガジンDialogで書いた、女子大生に対する私の批判に大変ご立腹のようですが、私は感じたままの事を書きました。少なくともある現実を目にして感じたことを書いてます。
 弁解になるかもしれませんが、私が担当している某大学女子短期大学部の教養科目「宇宙の科学」の実態を紹介します。
 まず、この講義を受けたのは、自分で、さまざまなパターンの講義を試してみたいと考えたことと、某国立大学でおこなった専門科目(岩石学)との違いを見てみたいと考えてました。
 この大学は春学期と秋学期のセメスター制をとっています。去年は、同じ科目が年間4コマあり、受講生は、約300名でした。多分これが最大でしょう。今年度は、春学期は、1限と2限の2コマで受講生は合わせて約100名です。秋学期は1コマで受講生は不明です。春学期と秋学期ではまったく違う視点で講義をしています。
 成績は、筆記試験によって評価します。出席もとります。これらは、学校の基本方針です。しかし、私の講義では、筆記試験だけでなく、出席、レポートの結果によっても加点しています。出席優秀(皆勤)のものには良い評価を与えます。当然、いかなる理由(忌引き、就職試験、実習)であっても、欠席は欠席です。ただし、多少の手心は加えます。さらに、希望者のみに対して、3回のレポートをおこないます。このレポートは必修ではありません。しかし、充実した内容のレポートを出したものには、良い評価を与えます。筆記試験、出席、レポートでそれぞれに加点しています。さらに、筆記試験の答案用紙にはこんな言葉を最後に書いてます。「さらに加点が欲しい人は、この用紙の裏に、本講義で学んだことを書きなさい」と書いてます。筆記試験以外は、良い点を与えるための措置です。
 私の講義内容や、レポート内容につていはホームページ公開しています。講義のレジメではく、私の講義メモも、インターネットのホームページで公開しています。そこから、試験を出すことにしています。
 それと、レポートも調べなくても書けるように、簡単テーマにしています。そのテーマは、「今まで、宇宙について一番興味をもったこと」、「ETはいるか」、「あなたにとっての宇宙史上の重大事件ベスト5」です。求めているのは、内容もさることながら、論理的に考え、相手に伝えるということです。それができる人は非常に少ないという嘆かわしい現実です。
 なぜ、こんな救済措置をしているかというと、私にとってはこれ以上簡単にできないというほど、簡単な試験を出しているつもりです。講義も非常にわかりやすくしています。なのに、試験だけの評価では、大部分が不可(この学校ではD)となります。ですから、多くの人は私なりにやさしく、できるだけ簡単に説明しているのに、理解してもらえないのです。某国立大学では、もっと内容を専門的にしてもついてきました。つまり、言っては何ですが、学生の質あるいは興味が違うようです。
 では、なぜ救済措置までして、女子短大生に「宇宙の科学」を講義するのかということです。それは、「宇宙」にこだわらず、受講者が「科学」に興味を持てるような内容を目指しているのです。まず講義の一番最初に、宇宙に関する研究者を目指す人がいるか確認します。もし、いるならそのれなりの内容にするつもりです。しかし、今まで皆無でした。ですから、一般教養として、充当していると判断します。では、私は彼女たちに何を伝えたのかということが問題になります。
 受講者に「科学」とは面白いものだということ、あるいは興味をもてないまでも「科学」というのは、いろいろなことを論理的に解明することだということがわかってもらうことを目的とします。私は、実は成績など、どうでもいいのです。すべて優(この学校ではAA)を与えてもいいと思っています。本当に伝えたいのは、受講者が母親になって、子供ができ、子供が自然に興味を持ったとき、汚いからやめなさいとか、危ないからやめなさいとかといって自然から子供を遠ざけないようにして下さい、ということです。受講者の子供が、将来科学者になり、人類のために役立つ成果を出すかもしれません。そのために受講者に、科学への理解を深めて欲しいと思っています。このようなメッセージを、講義の最初にも、折のあるたびに述べています。
 そして、もし、彼女たち自身が科学に興味を持ってくれればとも思っています。そのため、各回のテーマも、わかりやすく広い内容のものとしています。科学は面白いものであるということ、そして、科学の成果が日常生活に取り入れられて、生活を豊かにしていといいうことが伝わればと思っています。
 実は、そろそろやるパターンは終わりました。ですから、もうこの講義も止めようかな、と考えています。
 私自身の学生時代を考えていくと、教養時代の講義は、本当に単位のためだけでした。ただ、博士課程になってから、教員の単位も取っておこうと教養科目もとったときは、必要に迫られ受講しました。しかし、学問として必要としない、あるいは興味を持たないものは、あまり真剣ではありませんでした。学部になると、特別好きに分野でなかったのですが、好きにならなければいけないという義務感で、学科の科目は、すべて一番前で聞いていました。そして、2年生後半にはいい先生がみつかり、野外調査を始めました。そのおかげで地質学という分野から足が抜けなくなりました。
 熱意があればというのは、ある程度あたっています。しかし、専門に進むとそうでもないようです。例えば、学部で講義内容に人気のあった講義が、内容がすばらしかったのかというと、後から思えばそうでもなく、雑談や余談、関連した脱線話に興味を覚えたということがあります。それに反して講義はつまらなかったのですが、あとで、必要に迫られて講義ノートを見たとき、実は基礎的なことを、既存の教科書に頼らず、しっかりと教えてくださった先生もいます。しかし、当然、逆もあります。ですから、私の経験からいうと、生徒によいと思われる講義と、学問的によいと思われる講義は必ずしも一致しないこともある。そうぜん、一致することが望ましい。例えば、研究者であれば最先端のことを興味をもっています。それを講義の主要部分に据えると、面白いけど、基礎的な部分がかなりに抜け落ちることがあるということです。まあ、考えてみれば、教科書的なことは教科書を見ればいいのです。それよりも学問の面白さを伝えるほうが大切ではないかという考えもあります。その考え方で私の講義は行っています。
 理解していただけたでしょうか。筆の勢い(キー入力の勢い?)で過激に書きすぎたかもしれません。しかし、真意は上で述べたようなことです。
 菅井さんの後のメールについては、さらに別の機会にします。

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Letter 022 素敵な言葉
2001年5月24日 2:51
小出良幸さま
小出さんの2つのメールマガジンに関する何ということのない意見です。
A「共進化」という言葉、初めて聞きました。いろんな意味で、応用の利く言葉だと思います。きっと人と人との関係も、「共進化」の関係にあれば、一番良いと思います。そうなりたいと努力して「共進化」関係が成り立つとは言い切れませんが、努力することは無意味ではないはず。いい言葉ですね、「共進化」。(「共退化」っていう言葉があるとしたら、そして、人にそれをあてはめるとしたら、泥沼離婚前夫婦のような状況でしょうか?!そういう関係だけは避けたいですね。)
 では、今日の授業で居眠りをしないためにも、この辺で失礼します。
     菅井美里

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Letter 023 共進化とは

菅井様  ご無沙汰してました。顔は何度か合わせたのですが、メールはご無沙汰してました。  このメールは、遅くなりましたが、2001年5月24日 2:51A「共進化についての返事です。  メールマガジンで説明した言葉が、気に入っていただいたようで。共進化は、進化とは明らかに違うものです。一つのものでは、なし得なかったものが、二つ以上ものではなし得たということです。でも、これは、地球という規模の大きさで見た場合です。  ここを生物種のレベルで見ると、まったく違った評価ができます。前にエッセイで述べたような共進化の評価を正とすると、負の評価もできます。共退化という意味ではないです。  共進化とは、あまりにも他人の影響を受けすぎているということです。他人によって変化するのはいいのですが、自主性が残っているうちはいいのですが、他人に依存して生きる、他人との互助によって生きるというのは、もしその他人がいなくなれば、共倒れとなるわけです。共進化によって他人より有利なった反面、一人では生きられない弱さをもったということです。これが、負の評価につながります。  その負の評価は、最終的には種の生物としての将来性としてみることです。現在は、主流でなくても、将来への飛躍の可能性を秘めているかどうかです。共進化は往々にして、他の種に利益を配分したくない、寄せ付けたくないために、特殊化を伴います。その特殊化が、将来への閉塞感も秘めているのです。  進化は、ある生物が、環境や他の生物との間に生じる反応によって、その生物自身が変わっていくという意味です。ですから、そこにはいい変化や悪い変化という評価は入っていません。でも、結果として残ったものが、次の世代を残す権利を勝ち取るのです。勝者が、良いという評価をするのは、勝ち残った進化した生き物は、地球の生物史においては正義といえるかもしれません。進化できたとしても、勝ち残らねば敗者です。  過去の生物の化石は、時間という淘汰を受けた勝者の歴史と見なせます。しかし、化石になって絶滅している生物は、勝者から敗者となります。盛者必衰の定めなのでしょうか。  では、絶対の正義、常勝の生物はいないのでしょうか。  つまり、進化せず、勝ちつづけている生物です。そんな生物もいます。古きつわもの、古豪です。詳しくはよく知りませんが、彼らは、生物史の一番最初に出現し、今も他の生物が住めない環境で生き続けています。それは、古細菌と呼ばれる生物グループです。  彼らは地球の生命史の上では、一番の勝者ではなのでしょうか。多分、そうだと思います。地球の最初に発生した生物が、いまだに生を継承し続けている。過去から現在まで、地球の環境は激しく変化してきました。でも、いまだに今続けている生物、古細菌。多分、彼らは地球最後の生存者となりうる、タフネスを持っています。
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Letter 024 質問追加
2001年5月24日 13:27
[Clubgeo 153] より転載
 皆様、お昼ご飯の後でちょっと眠いひと時をお過ごしでしょうか。1時間30分のロング昼休みをのんびり過ごしている菅井です。
 今日の早朝にし忘れた質問をもうひとつ。前に博物館でいただいた本の中に書いてあった、隕石の年代測定に関する質問です。
隕石の年代測定には、ヨウ素が重要な意味を持っているそうですが、細かいことがよくわかりません。
 まず、ヨウ素は地上にある127と超新星爆発の際に生じる129・131の3種類ある。
隕石の年代測定には129と131がかかわってくるが、131は半減期が短く、すぐにキセノン(Xe)に変化してしまうため、129が使われる。
129は1億年以内に隕石に取り込まれればXeとして隕石の中に残る。
そのキセノンの年代を測定することが、隕石の年代を測定することになる。
大方はそんな感じだったと思います。では、質問。
@隕石の中に含まれるキセノンが、ヨウ素131起源だということはどうやってわかるのですか?半減期の短いヨウ素131起源のキセノンは、残らないんですか?それとも、キセノンにも同位体があるのでしょうか。そうしたら、元のヨウ素が129か131かはっきりするかもしれませんが。
A半減期の長さは電子配置と関係があるのでしょうか。電子配置から見ると、129より131のほうが安定していると思います。つまり、131は、陽子を1個連れてくればキセノンになってしまうから、半減期が短いのかな・・・と。あくまで、憶測ですが、どうでしょうか。
BAに関連して、ヨウ素127の半減期はどのくらい長いのでしょうか。Aを考えるときの参考になるのかな?と思いまして。
どなたか、お答え願います。文系の私にもわかるような言葉で・・・。
では、昼休みももう終わりなので、午後のお仕事適度に頑張ってください!
菅井美里

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Letter 025 放射性元素について
2001年5月25日 12:08
[Clubgeo 155] より転載
菅井様
@ 隕石の中に含まれるキセノンが、ヨウ素131起源だということはどうやってわかるのですか?半減期の短いヨウ素131起源のキセノンは、残らないんですか?それとも、キセノンにも同位体があるのでしょうか。そうしたら、元のヨウ素が129か131かはっきりするかもしれませんが?
A半減期の長さは電子配置と関係があるのでしょうか。電子配置から見ると、129より131のほうが安定していると思います。 つまり、131は、陽子を1個連れてくればキセノンになってしまうから、半減期が短いのかな・・・と。あくまで、憶測ですが、どうでしょうか。
Bヨウ素127の半減期はどのくらい長いのでしょうか。

という質問ですが、以下にまとめて、説明します。この原理は、難しいのですが、我慢して読んでください。
 まず、基礎の1は同位体についてです。
 原子は、原子番号が付けられています。それは、原子核の陽子の数と同じです。さらに、原子核には中性子があります。中性子と陽子の数を足したものを、質量数といいます。中性子の数は、一つの元素のなかでも何種類かあります。そのような質量数の違うものを同位体といい、原子の中で質量数の違うものを、核種といって区別します。
 次は、基礎の2で核種についてです。
 核種には、できてから安定で存在する安定核種と、壊れると(崩壊という)と別の核種になる放射性核種があります。その変わり方、つまり崩壊のスピード(半減期もしくは崩壊定数で表す)とどの核種に変わるかは、でたらめでなく、放射性核種毎に決まっています。放射懐変する核種を母核種、できた核種を娘核種と呼びます。懐変後に、娘核種が、安定核種にならず放射性核種であれば、さらに他の核種に変わっています。そして、最終的には安定核種となります。例えば、129ヨウ素が壊れれば、132Xeという安定核種になります。
 さて、基礎に続いて、各論1としてヨウ素です。
 原子番号53のヨウ素(I)には、安定核種として質量数127のヨウ素があります。放射性核種として質量数117から133ヨウ素までがあります。以下にまとめましたが、ここでは、分以下の半減期の核種は除いてます。
母核種 半減期 娘核種
117I 2.22分 117Te(放射性核種)
118I 13.7分 118Te(放射性核種)
118I 8.5分 118Te(放射性核種)
119I 19.1分 119Te(放射性核種)
120I 81.0分 120Te(安定核種)
120I 53分 120Te(安定核種)
121I 2.12時間 121Te(放射性核種)
122I 3.63分 122Te(安定核種)
123I 13.27時間 123Te(放射性核種)
124I 4.18日 124Te(安定核種)
125I 59.408日 125Te(安定核種)
126I 13.11日 126Te(安定核種)
127I (安定核種)
128I 24.99分 128Xe(安定核種)
129I 1570万年 129Xe(安定核種)
130I 9.0分 130Xe(安定核種)
130I 12.36時間 130Xe(安定核種)
131I 8.0207日 131Xe(安定核種)
132I 2.295時間 132Xe(安定核種)
132I 1.387時間 132Xe(安定核種)
133I 20.8時間 133Xe(放射性核種)
となります。
 放射性核種のヨウ素は超新星爆発のときにできます。上で書いたように、放射性核種のヨウ素は半減期が非常に短いので、ヨウ素の放射性核種は現在、残っていません。その痕跡は、Te(テルビウム)か、Xeに残っているのはずです。このような超新星爆発時の痕跡の核種を、消滅核種と呼んでいます。消滅核種の発見によって、超新星爆発から太陽や惑星形成の様子が探ることができます。
 このうち、半減期のけた違いに長いのが、質量数129ヨウ素で、1570万年です。それ以外の核種は、非常に半減期が短く、すべて別の核種に(太陽系や地球の時間軸で見れば)あっという間に変わってしまいます。ですから、消滅核種として見つけやすい、あるいは一番可能性があるのは、質量数129ヨウ素です。質量数129ヨウ素が壊れて形成される核種が、132Xeという安定核種です。129ヨウ素が壊れて形成されてできた132Xeが見つかるかどうかです。
 続いて、各論の2でXeについてです。
 XeもIと同様にまとめます。準安定のものは除きます。
母核種 存在度(%)半減期 娘核種
124Xe 0.1 (安定核種)
126Xe 0.09 (安定核種)
128Xe 1.91 (安定核種)
129Xe 26.4 (安定核種)
130Xe 4.1 (安定核種)
131Xe 21.2 (安定核種)
132Xe 26.9 (安定核種)
133Xe - 5.243日 133Cs(安定核種)
134Xe 10.4 (安定核種)
136Xe 8.9 (安定核種)
となっています。
 キセノンは、133Xeだけが放射性核種で、あとはすべて安定核種です。問題の129ヨウ素から懐変してできた(過剰といいます)129Xeが見つかれば、消滅核種の発見となります。
 各論3は、IとXeの化学的性質です。
 Xeは希ガスですので、固体にはほとんど入りません。しかし、ヨウ素はある条件では固体として振舞います。つまり、Iは消滅する前であれば、固体になるはずです。つまり、その頃にできた固体物質(隕石)に取り込まれている可能があります。固体中でIからXeに変わっても、固体であるがためにXeを保持しくれます。もしそのようなIが見つかれば、超新星爆発から固体物質形成までの期間が推定できます。
 さて、実際の測定結果です。
 問題は、過剰の129Xeをどうして見つけるかです。地球大気における128Xe/132Xeの実測値から予想される129Xe/132Xeと、試料の129Xe/132Xeを比べればいいわけです。そして、試料の129Xe/132Xeが予想よりおおければ、過剰の129Xeつまり消滅核種の129Iが固体中にあったということになります。過剰の129Xeが、隕石(一番最初に見つかったのはリチャードソン隕石)から見つかったのです。消滅核種129Iの発見は1960年のことでした。
 さらに、応用1です。
 その隕石中の過剰129Xeの量と消滅核種の129Iの量から、隕石ごとの形成年代差を推定することができるようになりました。それは1970年のことです。
 その方法は、実験と数学的トリックを使います。実際の分析では、誤差を減らすために、132Xeと129Xeの比、132Xeと128Xeの比として測定します。
 また、核種の比は、132Xeと127Iを分母にするために、数式上、128Xe/127I比が必要となります。それは、127Iを原子炉で放射線(熱中性子)を照射して求めます。現在の129Xe/132Xeと128Xe/132Xeを試料の温度を段階的に上げながら、実測できます。以上のようにして、計算に必要な値ががすべて得られます。その結果、多くの隕石は、約2000万年の間に形成されたことがわかってきました。
 応用の2は、各種の消滅核種についてです。
 消滅核種129Iが、1960年に発見された後、244Pu起源の過剰のXeも見つかりました。その後、測定が難しくて、次の消滅核種はしばらく見つからなかったのですが、1970年代後半になって、半減期71.6万年の26Alに由来する過剰の26Mgが、半減期650万年の107Pdに由来する過剰の107Agが、半減期370万年の53Mnに由来する過剰の53Crが、半減期150万年の60Feに由来する過剰の60Niが相次いで見つかりました。その他にも消滅核種の候補はあるのですが、測定や試料からの元素の抽出が大変微妙なのでまだ、発見されていません。
 消滅核種の26Alの半減期71.6万年という非常に短いものが、ある隕石(アエンデとよばれる炭素質コンドライト)のある物質(一番初期に形成された固体で白色包有物と呼ばれるもの)から見つかりました。ですから、超新星爆発から固体物質の形成までは非常に短い期間であったと予想されます。
 以上が菅井さんの質問に対する回答です。
 隕石にはこの他にも、面白いことが一杯わかっています。そして、今後も、隕石からは面白いことが一杯発見されると思います。お楽しみに。


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Letter 026 無題
[Clubgeo 161] より転載
2001年5月31日 13:29
小出様
 先日小出さんから頂いた回答、分かりやすかったです。あれを書くの、大変じゃなかったですか?有難うございます。高校2年の進路選択で純文系に入った私は、高校2・3年では理科といえば簡単な化学を週に1時間聞くことしかありませんでした。そんな私でも、なーるほどと思って読みました。
 隕石の話は、自分でもう1回整理しなおして、記憶にとどまるようにしたいと思います。(まとめるのは実習終わってからになると思いますが。)
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Letter 027 教育実習終了!&巡検
[Clubgeo 172]より転載
2001年6月21日 13:25
コンニチハ―!! 菅井です。
お久しぶりです、お元気ですか?

教育実習が終わってもうすぐ1週間が過ぎようとしているなんて信じられません!
とってもとっても正直で素直で、
やさしくて明るくてかわいい中学校1年生と一緒に過ごした2週間、毎日が楽しかったです。
明るい未来が、毎日、目の前に見えてくるような日々でした。
4クラス×6〜7時間、同じ事をやっているはずなのに、毎回違う事をしゃべって、、、自分でも不思議です。
「楽しい」「わかりやすい」って感想がくる度に、「私も楽しい―!」と叫んでいました。

頭が悪くて飲み込みが遅い私は、幾度となく失敗もしました。
指導教官の先生は、そんな私に「大丈夫よ!」といつも励ましの言葉をかけてくれました。
きっと今ごろ先生は私の授業で足りなかったところを補ってくださっているに違いありません。
(申し訳ない限りです)
確かに、ハードで、仕事は多いけど、生徒の可愛い笑顔と先生のあたたかいまなざしに支えられ、「大変だ」なんて思う事はありませんでした。

今でも心は中学校。
大学の授業は興味深いし、楽しい。
しかし、あれだけ心あたたまる関係は無いからちょっと寂しいです。
みんな今何しているんだろう、、、毎日そんな事ばかり考えています。
大学さえなければ、毎日教育実習でもイイ!って思います。

授業はともかく、卒論に手をつける気持ちがまだできていません。
こんなで卒業できるのかしら、とちょっと不安にもなってきました。

教育実習報告はこんなところで、23・24日の巡検はどういう風になりましたか?
集合場所等決まりましたら連絡を下さい。お願いします。

そういえば、先週の巡検どんなでしたか?
23・24日にでも教えてください。

久々にコンピュータの前に座って、キーを打つ手もおぼつかない。
朝から晩まで直筆処理で仕事をしていたので、メールを打つのはちょっと味気ないような気もしてきました。

これから中学校にお礼の手紙を書いて、源氏物語の授業を受けて、家に帰るのは8時ごろ。
雨足が強くならない事を祈りながら、今日はこの辺で失礼します。
      菅井美里


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Letter 028 
菅井様
 さて、境界問題はどうしましょう。しばらくご無沙汰してました。まあ、あまり気にせずにいきましょう。
 さて、私、最近、心境、著しく変化しています。まあ、結論からいうと、極当たり前の「一人一人の心のままに」というようなことに到達したのですが、これもまだ、自分の心の整理も済んでないし、言葉にできないこともあります。このような境地は、他人との相互作用によって生まれました。何の利害のない他人とのコミュニケーションによって、生まれた心境です。私もボランティア、他人も善意での付き合い。
 それより、気になるのは、最近の菅井さんの心境です。悩み多き乙女として、日々悩んだり、喜んだりしているのではないのですか。卒論も忙しいし、将来の不安もある。ぜひ、最近の心境を語って下さい。長くなくても良いです。ホンの少しでいいですから、心を語ってください。
 では、また。
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Letter 029 共進化再考
2001年7月7日 6:17
小出様
 出張中に返事を出すのは卑怯か?とも思いましたが、忘れないうちに書きます。
 共進化についての返事、読みました。
 古細菌は、テレビで見たり、冥王代のことをHPにしたときにちょっと調べたので覚えています。深海から沸きあがってくる熱水の中でしか生きられない菌ですよね。なんてパワフルな生き物なんだって思いました。
 確かに昔と変わらず生き続けているという点では、古細菌が一番の勝者かもしれません。でもそれはやっぱり、「他の生物が住めない環境」つまり熱水でしか生きられないという棲家限定の元に可能となったことではないでしょうか。
 とすると、絶対的勝者とは言い切れないように思います。「生/死」という二元論を単なる現象だけにとどめず、そこに意味を付与することが人間の特異性だとするならば、「勝者/敗者」とは別の内実的な問題に首を突っ込んでもいいような気がします。つまり「生きかた」や「死にかた」を1番中心に考えたいということです。
 「生きかた」としては「共進化」を図ることもいいと思います。もちろん、自主性・独自性を消すことなく、むしろその自分のキャラクターを強固なものにする意識が重要になりますが。また、排他的になるのも必然の論理かもしれないけれど、避ける…いや、他者として排除されるものさえも取り込むことがより高度な「共進化」に繋がるのではないでしょうか。
 他者として排除されるものを「共進化」の渦に巻き込むには、ソクラテスの考えた対話法を利用するもいいかもしれません。ソクラテスはあくまで教育法として、相手の思い込みを論破して、新たな追及に向かわせ、より普遍的な見解を産み出させるようにしましたが、自分の中に潜む「他者」にその矛先を向けてもいいと思います。ああでもないこうでもないと自問自答することは人間ならいくらでもあることだと思います。そこにはっきりとした道筋をつけることが、問題をすっきり解決させる糸口だと思います。(1%のひらめきも必要ですが。順序立ててみるとそのひらめきがでやすかったりもするんですよね。だから「ひらめき」っていうのは偶然性より必然性があって出てくるのではないかと思うことがあります。)
 話がどんどん横道にそれていくので戻りますと、私にとって「勝者」はあらゆる「変化」に対して敏感で順応的な部分を持っていながら、「変化」に絶えうる強固な自己を持っているものです。「共進化」のよい面と古細菌のような力強さを併せ持ったものということになります。「変化」に絶えうる強固な自己とは、もちろん「排他的」という意味ではないですよ。純粋なキャラクターです。それを種に置き換えると、人間の場合は文化や伝統に相当するのではないでしょうか。文化や伝統は人間の生きた証拠そのものだと思うからです。(かといって文化や伝統が生み出した差別や暴力は、決して脈々と受け継がれるべきものではないでしょう。それこそ徹底的に対話法で修正していく必要があると思います。)
 話がいろいろ飛ぶので、無理やり軌道修正してまとめてしまいました。わかります?私の日本語。
 では夜も明けて、今日も元気におやすみなさい。
    菅井美里
*追伸*
 「死にかた」はあっさりしたのが良いですね。「生/死」は切れない連続的なものですが、私自身の「生/死」はすぱっと切りたいです。「人生は太く、長からず、あっさりと」が私のモットーです。
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Letter 030 生と死と
2001年7月20日 14:20
菅井様
 「共進化再考」読みました。
 出張中だからといって、メールを出すのは、「卑怯」ではないですよ。メールの効用は、手紙と同じで、不在でも届くことですから。そして、読んでもらえるはずだからです。
 さて、「生きる」とは、難しい命題です。なぜ生きているのか。答はあるのでしょうか。
 種の世界において、生きることすなわち生存は勝ちで、死ぬことすなわち絶滅は負けとです。とすれば、誰もが勝ちたいと思うでしょうか。種のレベルでは、そのような集団意思というものは、多分ないと思います。あるのは、個人のレベルにおける意志です。
 生きたいという、個々の強烈な志向は、生命の基本的性質だとおもいます。誕生は、すなわち生きるためです。でも、生き残ること、つまり勝つことが、善でしょうか。あるいは、負けることが、悪でしょうか。勝者がいるということは、必然的に敗者がいることです。勝ち負け、あるいは生死は、表裏一体を成すものです。
 魚などは多産系の生物が、最後のいくつかの個体が残ればいいという、生存戦略を持っています。そんな中では、同じ遺伝子を持つ同胞(はらから)たちにとって、誰が選ばれてもいいのです。選べれしものを残すために、死があるのです。同胞の生のために、同胞の死があるのです。
 このような種では、個々の生死は、もはや、善悪ではありません。グループ全体の生存戦略として、生死があるのです。このような例では、生きたいという志向と、死ぬことも善なりというのは、まったく対等ではないでしょうか。
 でも、実は、彼らは、生死を意識していないのが実態ではないでしょうか。不思議なことに、ヒト(だけ?)は、生と死を意識します。最近、私も、死を意識するようになりました。カナダにいる時に、「思いつくまま」というメモを書きつづけていました。その中の一つです。

●終わりのある人生:No. 18● 2001.7.11
トレイルを歩きながら、ふと考えた。
齢(よわい)、不惑を越えて久しい。
人生、残り、3分の1。
名残惜しいような、でもあきらめにも似た感情。
これも人生。
終わりがあるから、生を精一杯生きる。
終わりがあるから、今が大切。
残された時間が、不確かだから、
今を精一杯生きるしかない。
都合の良い終わりはない。
精一杯の今の積み重ねが、
悔いのない人生。

ということです。
 多分、何のことかわからないと思いますが、このようなことから、死を考えるようになりました。このような考えに至る一つの原因に、以下のようなこともありました。
 前から「定年したら、地球を見て歩きたいな」と思っていました。でも、今しか見れない場所、今しか行けないところがあるかもしれない、と思うようになりました。それ以降、定年といわず、今、行こうと考えました。例えば、立ち入り禁止になる場所があるかもしれません。見たいものがなくなるかもしれません。あるいは、見るためには体力が必要かもしれません。今、行きたいところ、今、見たいところに、最優先にして行こうと考えました。
 それも、これも、死を意識したからです。
 私は、「生/死は切れない連続的なもの」だとは思いません。「生/死はすぱっと切」れたものだと思っています。だから、私は、今を精一杯きることにしました。そして、最優先すべきは、自分の気持ちです。
 ちょっと、とり止めもないことを書きました。ちょっと菅井チックでした?

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