Letter Box No. 2


Letters 「境界と越境」

Letter 011 心を表現する
Letter 012 Re:名前とは
Letter 013 良いものって、良いの!?
Letter 014 近況
Letter 015 雑事
Letter 016 難解って誰が決めるの?
Letter 017 難解って私が決める!
Letter 018 石・砂・虫
Letter 019 マグマと岩石
Letter 020 反論!


Letter 011 心を表現する
001年4月25日 16:47
菅井様
 4月21日(土曜日)はいなくて御免なさい。
 できれば、今度の土曜日(28日)のジャンボ・ブックの展示換えには、来てください。前田君の都合により、富士山行きの日程を変更しなければなりません。その相談をしたいのと、中国行きに向けての資金調達のため、夏のアルバイトの書類を書いてもらわなければなりません。よろしく。

> 3月〜4月の長期無断休暇(?)の間にどういうことがあったのか、
> お仕事終わらせないで休んだのだからお伝えすべきかなあと思ってメール用に書いた
> のですが、
> 送るのをやめようと決めました。
確かに、会って話せば、簡単に済むことかもしれません。しかし、せっかくメールというコミュニケーション手段を利用し始めているのですから、利用しましょう。そして、菅井さん自身の言葉で、書いてみませんか。書くことと話すことは似て非なるものです。

> ただ、ひとつだけ、お伝えします。
> いろんな所へ出かけました。
> 出先、特に旅先では必ずイイ人に逢ったりイイことがある・・・そんな思い込みが増
> 幅するようなお出かけをしました。
「ひとつだけ」といわず、もっと書いて下さい。書くことの効用もあるはずです。書いているうちに考えることもあるはずます。ですから、書けるものであれば、書いて下さい。
 もし、難しいようであれば、話しでも良いです。人それぞれ、得意不得意があります。菅井さんは、急いで書くことはできないかも知れませんが、充分立派な文章を書ける人です。菅井さんは、文章によって自分の気持ち、心を正確に表現できる人です。それに、このことはそんなに、急ぐことでもありませんので、気長にお待ちしています。

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Letter 012 Re:名前とは
2001年5月5日 1:39
小出様
 残念ながら昨日は雨で、大野山の観察会には行けず残念でした。庭では藤が満開で、質素な中に日本的な趣が感じられて気分は万葉の歌人といったところでしょうか。
 そして、この頃はもっぱら文字と格闘しています。学生ならあたりまえのことなのですが、卒論に教案にテストに…と読まなければならない文字がたくさん。中でも、先の見えない卒論が一番辛いでしょうか。
 今、3回読まないと理解できないような本にぶつかっています。『リズムの本質』という題名で、ドイツ人の思想家が書いた本です。興味深い内容ではありますが、「〇〇系列」というような心理学のときに出てくる感じの言葉と漢文訓読式の翻訳がストレートな理解を阻んでいます。おかげで足踏み状態です。(9日には構想提出なのに)
 で、その『リズムの本質』に面白いことが書いてありました。我々は、同じ強さ・大きさで同じ間隔(3分の1秒おきとか)の連続した音を聞くと、その音列の中に強弱強あるいは弱強弱を聞くそうです。例えば、時計の「チックタックチックタック」なんかがそれにあたって、「チ」に強拍か少し長い感じがする。言われてみれば、確かに同じ強さなのに「チ」が強い気がします。そして、このことの意味は、直観要素の統一のためになされる精神の境界設定の働きが分割・文節・規則付けなどを行なう・・・要は、人は本能的に多様なものを理解するために何でも分けてしまうということらしいです。
 はじめの頃、「人間が混沌の中からアイデンティティを確立するための方法が、“分ける=境界を作る”という行為だと思います。」と私は言いましたが、それに近いような気がしました。また、前回「名前」や「語る権力」についてメールしましたが、そういったことも、境界設定の1要素と考えられるように思います。
 さらに、彼はこんなことも言っています。「直観像の加工と直観像の生産とを混同する傾向があったため」、直観像の内面化の研究では、文節の働きを認めず、混沌である現象世界に形を与えること(造形)が内面化であると誤った解釈をしてきた、と。藤の花が咲いたのが咲きか、「藤の花」という名前がつけられて初めてその花は藤の花になったのか・・・名前がつく以前から、藤の花はそこにあったんですね。我々は単に数あるものの中からその花を識別・認識するために「藤の花」と名づけたに過ぎないわけです。そう、混沌を整理するために。
 「名前をつけること=語る権力の行使」は、もしあるとすれば、名づける人や語る人が、意識的に利用し、権力を行使したから生じた式ではないと思われます。あくまで、語ることの付随事項として生じたものだと思うからです。「差別」の問題もこれに少し似ています。別に差別しようと思って発した言葉でなくても、相手が差別的発言と感じれば、差別したことになってしまう。それが善いか悪いかは別として、今の社会はそのようです。語る権力も同様、権力を発するために名づけ、語るのは、権力者になりたい!とうずうずしている人や、権力が揺らぐのを非常に恐れている(本当は権力者の器ではない)人くらいではないでしょうか。
 では、私にとって、名前とは何でしょう。個体識別のためにつけられたものであることは間違いありませんが、それ以上に、近しいもの、私そのものと感じます。P.N.はどうでしょう。私は、P.N.を一つだけ持っていますが、それは菅井美里という人間の1面であると考えています。P.N.ごとに違う人格になるとか言う人もあるようですが、あいにく多重人格でもないし、別の人格になりたいと欲しているわけでもない私には、P.N.の人格は、紛れもなく私という多面体の1面でしかありません。P.N.で別人格を繕うことも確かに可能ですが、今のところ、そうした行為は私の理想に反するものなので、私には不可能です。第一、別人格を繕うことは、やがてその人の主な人格の分裂を引き起こしかねません。そういう危険な綱渡りに挑戦する気は小心者にはないようです。
菅井美里
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Letter 013 良いものって、良いの!?

菅井様
 昨日は、いなくてすみませんでした。風邪で頭がやられました。まだ、頭が少しやられています。・・・・・・と書いてから、4日たちました。とうとう週末になりました。
 時の流れが速く、別のことにかまけているあっという間に、逃げ去っていきます。「少年老い易く、学成り難し」です。いやいや、私はもはや少年ではなく、不惑をとうに越えたおじさんです。ですから、単に「学成りがたし」だけです。
 さて、「3回読まないと理解できないような本にぶつかっています」確かに初めて読む傾向の本や、哲学書などは、そのような本があります。しかし、そんな難解な本が、人類にとって本当に必要でしょうか。
 難解の本とは、そのような難解な形しか、この世には表せないものがあるということでしょうか。難解さに必要性があるのなら理解できます。特に芸術にはそのような分野があります。例えば、抽象画や現代音楽、現代詩などはその例ではないでしょうか。難解、不可解がその芸術のコンセプトの一部としてあるわけです。それは、内容はわからなくても存在意義は理解はできます。
 人に伝えたい明確な内容があるのに、人々にわかりやすく伝えられないのは、内容が難解なのか、著者が無能なのかを見極めておく必要があります。後者なら、そのようなものを読むのは時間の無駄です。前者であるのは、昔から古典と言われているような、哲学書や歴史書、文学などで難解なものは、もともと内容が複雑であるということなのでしょうか。しかし、その評価は、誰が判断するのでしょうか。ある人には、重要な内容でも、ある人には無用の内容となるものは、必要なものでしょうか。古典なんかはまさにその狭間に立たされているのではないでしょうか。果たしてカントの「純粋理性批判」を何人の人が読み、そして何人の人がその内容を理解しているのでしょうか。その理解を論文に書く人がいるくらいですから、その解釈にはさまざまな意味合いが含まれているのでしょうか。はたして、それは、著者のあるいは本の真の意義を理解しているのでしょうか。
 「私にとって、名前とは何でしょう。個体識別のためにつけられたものであることは間違いありませんが、それ以上に、近しいもの、私そのものと感じます。」それは、一つの固有名詞として長年つきあっているので、「愛着がわいている」せいではないでしょうか。名前については、また別の機会にしましょう。
 「P.N.はどうでしょう。私は、P.N.を一つだけ持っていますが、それは菅井美里という人間の1面であると考えています。」ところで、P.N.ってなんですか。私の知らない言葉です。
 話は変わりますが、漢字文献情報処理研究会編「電脳国文学」という本を大分前に見つけました。見せよう知らせようともっているうちに、「光陰矢のごとく」月日は流れていきました。
 閑話休題。以前に林望が、大英図書館(?)の日本語の文献を整理する時(?)、漢字の第一、第二水準では漢字が全く足りなくて、部首を分解してデジタル化し、漢字と見なして、情報処理をしたということを読んだことがあります。
 この「電脳国文学」を読んでいくと、紀伊国屋書店の「今昔文字鏡」という電子漢字字典では、「大漢和辞典」収録のすべての親字約9万字が収録されているそうです。それが、いまやパソコンでも利用できるのです。それ以外にも文系の人が利用するためのさまざまなノウハウが書かれています。
 かつて、著名な文献の隅々まで、精通していることが専門家の一つの評価の対象でした。しかし、重要文献がデジタル化がおこなわれれば、コンピュータの記憶能力、検索機能は人間の能力をはるかに凌駕しているので、もはや文章を覚えていることやどのページに書かれてたか等は、もはや人間の出る幕ではないのでしょう。
 カントの批判書で、理性という言葉な何箇所使われ、その前後の文脈でどのような意味を持っているのかという、注釈的研究は、コンピュータがない時代には、重要な仕事であったそうなのですが、今や卒論生でもできる仕事となっています。ニュアンスは違いますが、黒崎政男という哲学者がそのようなことを書いているのを読んだことがあります。
 以前の「3月〜4月の長期無断休暇(?)の間にどういうことがあったのか」の、お話はどうなっているでしょうか。よろしければそろそろ解禁してください。
 先日もらった2枚のイラストのタイトルを教えてください。それと、この手紙のやり取りのホームページを私のURLで公開しました(http://www.ykoide.com/meta/)。一度覗いてみて下さい。
 それと、蛇足ですが、私は2つのメールマガジン地球に関する科学的エッセイ「地球のささやき」(http://www.cominitei.com/koide/)と視覚障害者の鈴木卓也さんとのメール交換「Dialog」(http://www.tecnet.nu/dialog/)を発行しています。よろしかったら、購読してください。よろしく。

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Letter 014 近況

2001年5月19日 2:23
[Clubgeo 145] より転載
 中1の担当になるのが決まりました。教科書の単元は、樺島忠夫氏が書いた『日本人
と文字』です。私が中学生の頃には入っていなかったものです。噂には聞いていましたが、今の教科書は物語文より説明文が多いみたい。
 なんとこの教科書、青木館長の『自然の小さな診断役』という文章が載っているんです。もちろんダニ話です。なかなか面白いです。国語でも博物館とつながりのある方とめぐり会うなんて縁があるのかしら?と思ってしまいました。

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Letter 015 雑事

2001年5月19日 14:49
菅井様
 蒸し暑いような、肌寒いような不思議な天気が続いていますが、お元気ですか。先日は、不在でも申し訳ありません。
 P.N.はpen nameだそうで、知りませんでした。ところで、菅井さんはPNを持っているそうですが、それは、どこで使われるのですか。どこかでもう人目に触れているのでしょうか。どんな文章を書かれているのか気になるところですが、それは、別の菅井さん顔なので覗かないことにしましょう。
 「樺島忠夫氏が書いた『日本人と文字』」は、文章はもちろん著者もしりません。有名な人なのでしょうか。
 「なんとこの教科書、青木館長の『自然の小さな診断役』という文章が載っているんです。」縁とは奇なものですなあ。青木さんも長年一つのことに打ち込んでこられ、それなりの成果を上げてこられたので、教科書に採用されたのだと思います。それと文才がやはりおありなのでしょう。
 「今はもう丑三つ時の真っ最中、朝起きれなくなるのが怖いので、この辺で」相変わらずの夜型ですか。体を壊さないように気を付けてください。20日湘南平であいましょう。ぜひ、アルカリ岩を発見しましょう。

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Letter 016 難解って誰が決めるの?

2001年5月20日 1:20
 今日は久しぶりに夕立が降ったので、ベランダの鉢植え植物を雨にあたるように出してあげました。雨に洗われて少しきれいになって、一段と明日は輝くことでしょう。
> そんな難解な本 が、人類にとって本当に必要でしょうか。
> 難解、不可解がその芸術のコンセプトの一部としてあるわけです。それは、内容
> はわからなくても存在意義は理解はできます。
 確かに、文学において「難解派」などと呼ばれる人たちがあります。それらの内容は、人間探求に根ざしたもののようです。でも、人間探求ならば、我々はれっきとした人間なわけで、それを理解できないって言うことはある意味人間欠格か?と思えて仕方がない。そこで私が思うのは、「個性」の問題です。戦前の軍国主義やブーム好きの日本人気質を考えると、そこでは個性を打ち消すことが目立ちますが、実際は人はみんな一人ずつ違った個性をもっています。だから当然、文学の上でも他の芸術と同じように作品に取り上げるテーマや文章の書き方(長さ・リズム・展開など)が作家ごとに違うし、作品・作家に対する評価だって、評価する人や時代によって異なります。だから、そういうものに逢った時、(難解・不可解が芸術のコンセプトとしてあるのではなく、)タマタマ、その作品・作家の示そうとするものが私に理解できないだけなんだろうと思います。
 例えば、森鴎外の『舞姫』や中島敦の『山月記』は教科書なんかにも載っていますが、そこに表出されるテーマは自我や社会との間で苦悩する主人公で、結構重いものです。高校時代にこれらの作品を読むことは、人間形成の重要な1点になると思います。しかし、どちらの作品も、文語調であったり雅文体(和漢混交構文)であったりして、ちょっと読みにくい。加えて、鴎外の作品はどれをとっても、舞台設定が物語りのはじめに長々とあって、読み込んではじめて面白さがわかるような感じがします。そのため、鴎外の作品は教科書から削られる運命にたたされたようです。教科書は、難解で不可解な芸術もあるんだということを教えるために作られているのではないと思います。現に国語の苦手な私でさえ、こんな興味深い作品があったなんて!と思ったのですから。一見難解でも、本当は多くの人が共通に理解できる普遍的な、あるいは共感可能な何かが、そこには描かれているのではないでしょうか。また、ピカソのキュビズムを理解できる眼を私は持っていませんが、彼の魂の勢いや美しさを作品から感じることはできます。そういうことが、重要なのではないでしょうか。作品から感じた何かについて、「私はどうしてこんな感想を持ったのだろう」と思いめぐらし、作家や作品について調べていく…これが芸術を学ぶということだと思います。
 そして、難解な本(モノ)の必要性ですが、何につけ、「必要か否か」で物事を処理するのには賛成しがたいです。「必要か否か」ではなく、表現すること・発表することの重要性に焦点を置いたほうがいいような気がします。例えば、今私がここにいる必要性があるとすれば、それは、私がこの世に生を受けたことの上に成り立っています。誰かが表現し、発言したことが、いつどんな時にどのような理解・評価をされ、用いられていくのかなんてわかりません。とりあえず今表現・発言しておくことが重要ではないですか?・・・必要性ということを仮に考えるなら、どんなものでも必要だということしかできないように思います。必要性だって、時代や人によって異なりますから。
 こう考えていくと、科学も、ちょっと似ていませんか?というのは、例えば、ひとつの岩石があって、その岩石の成分は科学的に明らかになるけれど、それに対する読みは、研究者が知識や経験を駆使して行なうのですよね。文学も同じです。作品や作者は変わらずそこにあるのに、それに対する読みや評価は、読者が勝手にする(もちろん研究者は自分の読みの普遍性を文献などをあさって論じていくわけですが)。
 それから、著者のあるいは本の真の意義について。。実際問題として、著者のあるいは本の真の意義を汲み取ろうとするのが国語という科目です。しかし本当は、そんなものはわからない。著者でさえも、わからないこともある。で、文学研究は、今私の浅はかな知識によると、カルチュラルスタディーズや折口信夫の研究の成果によって変わったようです。例えば、王朝文学や神話などの古典といわれる作品に関する研究には、折口信夫が大きな影響を与えているようで、「〇〇譚」等と称される「話型」による研究がなされています。ひとつの物語を論じる場合も、いくつもの物語の中で、共通して語られる大きな話の型について論じた上で、その物語の特殊性・面白さについて研究するという方法をとっているみたい。(なぜ古典について例をあげたかというと、近代文学においてそのような手法をとっているものに私がまだめぐりあっていないからです。きっとあるのでしょうけれど。加えて、源氏物語の受容研究をなさっている先生の授業がとっても面白くわかりやすくて、毎週楽しくて仕方がない…この気持ちが押さえられないからです。)

 P.N.について、この間博物館に伺ったときメモをコンピュータに貼り付けさせていただきましたが、ペンネームの略語です。中学の頃から知っていたのですが、知らない方も多いかもしれませんね。でも、新聞やテレビに投稿するときにP.N.と書いても、通じますよ。

 漢字文献情報処理研究会編「電脳国文学」――知りませんでした。学燈社の『国文学』なら知っていますが。今度後学のためにも探してみます。題名は『電脳国文学』ですが、サイトじゃないんですよね。本なんですよね。コンピュータが普及しても昔と変わらない場所(学問・学校・社会など)はないのでしょうね。コンピュータを操れる人を時代が求めているようですが、やっぱり私はアナログ第一。だって、何より私自身がアナログでできていますからね。
 2枚のイラストのタイトルは、ないです。というより、つけられません。なぜかつけられないんです。
 長期無断休暇の話は、現在すこーしずつ推敲中です。また、公表方法についても思案中です。
 それから、メールマガジン、購読手続きをとりました。購読以前に発行されたものはHPにストックされているようでしたので、ちょっとづつそちらも読ませて頂いています。「地球のささやき」は知識0の私も楽しく読め、ますます科学に関心を持ちたいと思い、「Dialog」は、鈴木さんの視覚に関するお話の興味深さはもちろん、お二人の素顔が垣間見られて面白いです。
  では、明日遅れないように、今日はこの辺で。
       スガイミサト


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Letter 017 難解って私が決める!

菅井様
 20日に大磯に行って、24日の今日、久しぶりに博物館に出てきました。家内が風邪をひいいたので、子供の世話と家事をしてました。家事は大変です。段取りというか手順というものがわからず、何が何処にあるかもわからず、子供服や着替えが何処にあるかもわからず、右往左往してしまいます。そしたら、次男が風邪をひき、高熱で、保育園から23日に電話があり連れ帰りました。我が家では、5月の最初に私が風邪を引き、次の週には、長男が風邪を引き、次の家内、次男と、順繰りに風邪になっていきます。そろそろ夏だというのに、小出家はまだ、冬が居座っています。
 さて、菅井さんからのメールが、いくつかまとめてきていました。量産の時期になったのでしょうか。私は、コンスタントに少しずつ、返事を書いていきます。
 まず、「2枚のイラストのタイトルは、ないです。というより、つけられません。なぜかつけられないんです。」は、了解です。世の中、すべてに、名前やタイトルがある訳ではないのでしょう。2つの名前を持つ人もいれば、「名もなきものたち」もたくさんいるはずです。例えば、絵画や彫刻などの芸術では、「無題」という題の作品を見かけることがあります。それでも立派な題です。ですから、2枚のイラストは、無題と日付にしておきましょう。
 次に、難解についてです。「文学の上でも他の芸術と同じように作品に取り上げるテーマや文章の書き方が作家ごとに違うし、作品・作家に対する評価だって、評価する人や時代によって異なります。だから、そういうものに逢った時、その作品・作家の示そうとするものが私に理解できないだけなんだろうと思います。」ということですが、なにも自分の能力を卑下することはないと思います。自分を中心に、世の中を見ていけば良いと思います。もし、自分には「難解で理解できないもの」でも、そのものに興味があればいいのではないでしょうか。難解さに惚れてもいいわけです。それはありです。
 あるいは、この世のことすべてを、理解する必要はないということを悟ればいいのです。なかなかその境地にはたどり着けず、ついつい自分を卑下して、頭が悪いからとか、感性がないからとあきらめてしまいます。しかし、「評価する人や時代によって異なります」ですから、自分でそのものを評価すればいいのです。他人がなんといおうが、自分が面白いと思えばいい本だし、皆が面白いといっても自分が面白くなければ、つまらない本です。私はそう割り切っています。
 私は、中学生や高校生の頃、特に浪人時代の読書量は多かったです。浪人生とは思えないほどです。読書に受験からの現実逃避していたのです。文学青年であった(?)私は、難解なものや古典なども含めて、なんでもかんでも読んでました。その読み方は乱暴で、まさに濫読でした。読むこと、読み終わることに意味や快感を見出してました。難しくて理解できなくても、最後まで読みきることを、自分自身に義務として課し、頑張ってきました。
 例えば、岩波文庫の星の一つ(今はなくなりましたが、かつて岩波文庫は値段を星の数で表していた)をできるだけ読むぞ挑戦しました。挑戦に意味があったのです。古典として、源氏物語、徒然草、今昔物語、方丈記、更級日記、論語、孫子、五輪書、古今和歌集、新古今和歌集、柳樽、黄表紙などを読んでみました。なかには面白いものもあり、徒然草などは未だに読み返すことがあります。宗教書としては、旧約聖書、歎異抄、無門関、般若真教なども読みました。文学を読むぞと、夏目漱石、川端康成、志賀直哉、山本有三、室生犀星、三島由紀夫、幸田露伴などにも挑戦したり、もちろん森鴎外と中島敦もその中に含まれていました。しかし、阿部公房で挫折しました。評論を読むぞと小林秀雄、江藤淳に挑戦しました。小林秀雄は、なんとなく理解できず、しかしその自然な論理の飛躍が快感でした。随筆を読むぞと寺田寅彦、坂口安吾、畑正憲、円地文子、今西錦司などに挑戦しまし。今は寺田寅彦を時々読みます。歴史小説を読むぞと、井上靖、吉川英治、司馬遼太郎、山本周五郎、菊池寛などを読んできました。特に司馬遼太郎はいまだに読むことがあります。「空海のみた風景」は詳説とは思えません。巨匠、司馬良太郎だからありなのでしょう。このように私は、数々の読書遍歴をしてきましたが、外国文学が少なく、トルストイ、ソルジェニーツ、ニーチェ、カフカなど読みましたが、まともに読んで感動したのはジャンクリストフくらいでしょうか。
 読んだものの中には、最初から面白いと思えるものありました。全部を読んで後で思い返すと、じんわりと良かったなの思えるもの、最後まで理解不能であったものもあります。年齢的にまだ読むのが早すぎたものもあったかもしれません。宗教書や哲学書がそうかもしれません。
 大学生のころ、カントの純粋理性批判やマルクスの資本論を何とか理解したい何度か挑戦しましたが断念しました。ただ、エンゲルスの自然の弁証法は感動しました。そして、小さい頃あまり本を読まなかったので、児童文学や大衆小説を大学時代に一杯読みました。
 その後、研究が忙しくなると、暇つぶしや、気分転換、ナイトキャップとして軽い読書として、ミステリー、SF、エッセイ、ハウツーものを読んでいます。それは、今も続いています。
 現在の読書の主流は、科学書やノンフィクションを中心になっています。しかし、時間がないので、あまりたくさんは、読めません。ですから、自分に必要なものだけを読むようにしています。人の知らない世界で、訓練すれば理解でき、やがては面白いと思える分野の本もあるかもしれません。しかし、年をとると、もっと他に読むべきものがあるのではないかとつい思ってしまうのです。ですから、読み出して面白くないとすぐに止めて次の本にいってしまいます。それと、若い時のように、「読み終わることが目標」などというような無謀なことはできません。自分に何らかの興味や必要性があるものだけを読むようになりました。
 年をとると、「自分には残された時間が少ない」という脅迫概念あるいは自己弁護によって、骨の折れるのもは読まなくなりました。良いことなのでしょうか。それとも、大人のずるさなのでしょうか。実は「時間が少ない」というのは言い訳です。軽いミステリー、SF、エッセイ、ハウツーものなどは、今でもさっと読んでいるのです。大人ってずるいですね。ですから、骨の折れるものは、若いうちに挑戦しておくことは大事かもしれません。それが、その人の人間形成や後の経験に繋がるのでしょう。
 今の若い人は、いやそう言い切るのはと間違いですね。いつの時代も、本を読まない人はいます。しかし、別に他人に押し売りをするつもりはありませんが、こんなに楽しい世界、あるには自分には決して考えつかない世界などを知るためには、読書は有効かもしれません。しかし、それが、万人に通用するものでないことも理解しておく必要があるのでしょう。
 読書に関して、つれづれなるまま書いてしまいました。

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Letter 018 石・砂・虫

[Clubgeo 150]より一部転載
2001年5月24日 1:29
こんばんわ、昨日はゼミでしごかれた菅井です。
 この間万田でとった石、何でしたか?探していた石でしたか?アルカリ岩探しに行ったんですよね。とすると、アルカリ岩の枕状溶岩を探しに行ったということになるんですか?
 確か、伊豆の巡検に行った時、網が張られた崩壊寸前の崖で見たのが、アルカリ岩だったんでしたよね。アルカリ岩って、ボロボロになりやすい性質のものなんでしょうか。それから、万田のあのあたりでアルカリ岩が出ると、どんな意味があるんですか?小出さんと山下さんの話を聞いていた限りでは、きっとすごい地質上の変化(従来とは異なる説)が見えてくるみたいでしたが。ふらっと歩きながらなんで、ホーッとちょっと心に留めるくらいのことしかできず、詳しいことは…。HPのネタにもなるので、教えて下さい。(自分用の石をとり忘れたことに帰宅後気付きました。カメラを持っていくのも前回同様忘れました。今度巡検に必要な道具リストを作ろうと思います・・)
(中略)
 話題は戻りますが、先週の平塚はやっぱり虫が多かったようですね。家に帰ったら、肩刺されていました。(まだ療養中。野ダニかしら。)クモにゴキブリに得体の知れない虫、日に日に視力の衰えている私には、見えない恐怖がいっぱい。酸素をくれる草たちには悪いけれど、勢いよく元気に伸びた草を見ると虫酸が走りました。加えて、今度は稲の花粉にまでやられるようになったらしく、あの日以来辛い毎日。
 人とお話をすることの重要性も再認識しました。正しいかどうかは別にしても、いろんな情報を知っておくというのは、後々役に立つかもしれません。知的財産とかいうものは言い換えれば人類の財産。善意の押し売りにならず。灯台下暗しの防止になるくらいの情報交換は逐一行なうことが必要なのでしょうね。

今日も大好きな授業目白押し。何を教えてくださるのか楽しみー。
では、風邪が流行っているようですので、皆さま体調に気をつけて。


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Letter 019 マグマと岩石

[Clubgeo 151]より転載
2001年5月24日 9:39
菅井さま
 相変わらずの夜型、朝方の私とは裏返しの生活ですね。私も昔は夜型でした。
万田のアルカリ岩について
 今まで論文で書かれたのは、ここにアルカリ岩があるという内容で、その後詳しい調査はされていません。そこで、今回調査したわけです。しかし、蓋を開けてみると、アルカリ岩は見つからず、枕状溶岩の有名な(地質屋さんの多くがその露頭をしっている)ところの、分析をしたところ、アルカリ岩ではなかった(ソレアイトと呼ばれる種類の玄武岩)のです。これはどういうことでしょうか。論文を見る限り、アルカリ岩は間違いないようです。でも得られる試料は、火山岩起源の堆積岩やソレアイトだったです。ですからミステリーだたのです。
アルカリ岩とソレアイト
 マグマからできた岩石は、そのできた場所、大陸や列島(島弧といいます)、海洋島、中央海嶺(海洋底の岩石と同じ)などで、岩石の性質が違います。性質の違いは、岩石を構成する鉱物(造岩鉱物といいます)の種類、岩石の化学組成(全岩化学組成といいます)や鉱物の化学組成(鉱物組成といいます)として見分けることができます。アルカリ岩は、海洋島と島弧に出ますが、化学組成が違います。ソレアイトは、中央海嶺と海洋島、島弧にでますが、やはり化学組成が違います。ですから、昔の岩石の性質を調べるとその岩石が、どこで出来たかわかります。現在、日本列島は、島弧と呼ばれる地質学的な位置にあります。しかし、中央海嶺や海洋島できた岩石が見つかります。つまり、日本列島は、島弧でありながら、いろいろな所でできた岩石が集まった寄木細工のようものなのです。その寄木の一本一本を何処からきたのかを調べることによって、日本列島の大地の歴史が読み解けるのです。
少し長くて、むつかしかもも知れませんが、わかりました。

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Letter 020 反論!

2001年5月24日 2:51
小出良幸さま
小出さんのメールマガジンに関する何ということのない意見です。
@教育を受ける側の大学生は、教科の内容よりも単位という基準で考えています。どんなプロセスを経ようとも、いい成績さえもらえればいい。
 否、そんなことはないです。確かに、一部には、卒業さえできればいいんだと考えている人はいますし、4年ともなると「卒業」の意味は重くなってきますから、表面上そういう人も増えて見えます。しかし、私及び私の周辺では、授業の内容が非常に有意義であることが、受講するかどうかの第1の関門。他学科であろうが、単位を認めてもらわなかろうが(通称モグリ)、自分にとってためになるものが最重要ポイントなんです。
 成績に関しては、それは良いに越したことはありません。でも、誰にでもAやBをくださる先生は、はっきり言って、信用の度合いは低く、小出さんが仰っているような学生が好んで受講していると言えましょう。でも、出席や成績の厳しい授業でも受講生が減らず、そういう授業の先生に学生の信頼が篤いことが少なくないのも事実です。
 「女子大は出席・成績に厳しい」という話をよく聞くのですが、本当にそうかはわかりません。客観的指標がありませんし、この程度が厳しいというのなら、学生の側に問題があろうと思うからです。あくまでも、学校は学びの場。高校以上の学校に関しては義務じゃないわけですから、来たくない人はこなければいい。来るのなら、どんな個人的背景があろうと一学生として、学校や教師との契約に反するような態度は慎むのが礼儀ではありませんか?これは、教師の側にも言えることで、極めて主観的な評価法や提出物の期日を曖昧にすることは避けるべきです。教師が平等な目で学生を見、学生はきちんとした態度で授業に望む…こうした双方の努力が最低限の学校のルールであり、当然のことではないでしょうか。(質問:成績をつける上で、人間的なやり取りってどういうことを指すのでしょうか。)
 近年、学生の学力不足が話題になっていますが、学力不足だからといって授業でやるレベルを極端に下げるのには、賛成しかねます。どんな分野でもそうだと思いますが、自分にとって理解の進まない分野でも、理解できるように努力することは必要でしょう。そして、そうした努力に対して、教師は注意を払う必要があると思います。本来これが、教師と生徒のコミュニケーションの形だと思います。(でも、どんなに小難しそうな分野でも、本当によくわかっていて、その分野を楽しいと思っている先生の授業であれば、たいてい生徒は理解できていると思います。わけのわからない授業と感じるのは、授業内容が高度であるかどうかよりも、先生がよくわかっていなかったり、楽しいと思っていなかったりすることが大きなハードルになっていると思います。)
     菅井美里
P.S.
樺島忠夫氏は、私も存じ上げない方です。国語学を選考なさって、神戸学院大の教授でいらっしゃるそうですが。国語学で一般的に知られているのは、金田一京助・春彦氏と柳田国男氏、最近話題の『日本語練習長の作者・大野晋氏くらいじゃないですかね。学校文法を作った橋本新吉氏、徳川家の末裔・徳川宗賢氏、時枝誠記氏、山田孝雄氏、池上嘉彦氏も有名どころですが。

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