もどる


画像をクリックすると大型の画像が見ることができます。
ただし、大きなファイルの場合がありますので注意ください。

Essay ▼ 183 築別炭鉱跡:夏草や兵どもが・・・
Letter▼ 学生がいない大学・推敲中


草むらに先にある巨大煙突。


鉱山の発電所の煙突。


太陽小学校の体育会。

太陽小学校の校舎。


貯炭場(ホッパー)。


貯炭場の内部。


炭鉱アパート。


羽幌炭鉱鉄道病院。

(2020.03.15)
 かつて、石炭は主要なエネルギー源でした。エネルギー革命で、石炭から石油に代わりました。今でも、石炭の需要はあり、日本でも採掘しているところもあります。閉山したところも多数あります。今回は閉山した炭鉱です。

 北海道でも、景色のいい道はいろいろありますが、留萌から日本海側沿岸を北上していく国道232号線が気に入っています。天塩から国道は内陸入りますが、道は海岸沿い道道106号となり稚内まで続いています。昨年は、調査でこの道を何度も通ることになりました。
 羽幌は、留萌の北に位置しています。日本海側にある街で、国道232号線沿いにあります。天売島、焼尻島へ向かうフェリーの発着の港もあります。今では、天売焼尻の観光が重要な産業ともなっています。しかし羽幌は、もともとは炭鉱の町として栄えてきところでした。今でも、その名残が残っています。
 昨年秋の道北への調査からの帰り、雨になったので、炭鉱跡を訪れることにしました。そこへな、海岸沿いの国道から山間にかなり入ってきます。山間にある炭鉱跡には、多くの施設跡が放置されていました。すべての施設は、草に覆われ、廃墟となっていました。「夏草や兵どもが夢の跡」という言葉が浮かぶようなところでした。
 かつて北海道各地で、石炭が採掘されていました。北海道には、第三紀の地層には石炭があり、採掘されていました。主なものに、天北炭田、苫前炭田、留萌炭田、石狩炭田、釧路炭田などがあり、それぞれの炭田で、多くの炭鉱が稼働していました。現在では、ほとんどの炭鉱が閉山しました。
 1960年代からエネルギーが石炭から石油に転換ししていくという「エネルギー革命」が起こり、1973年の石油危機で決定的になりました。石油と比べて、石炭はエネルギー効率が劣り、採掘経費がかかることなどで、立地条件が悪く採算がとれない炭鉱が、多数閉山していきました。
 ところが、近年の原油高と、原発の危険性の認識により、石炭の需要が戻ってきました。2011年3月11日の福島原発事故から早9年もたちましたが、原子力発電所を止めて、再生可能エネルギーに切り替える動きが世界の潮流となりました。再生可能エネルギーに移行するまでのつなぎとして、石炭火力も重要なエネルギー資源となってきました。皮肉なこと、石炭採掘からほぼ撤退した日本でも、石炭火力発電所の需要が増えています。
 現在の日本でも、少いですが、炭鉱が稼働しています。ただし、海外の石炭に対抗するため、コスト削減に成功し、価格で対抗できる露天掘りが主となっています。
 稼働しているのは、留萌炭田では吉住炭鉱が、石狩炭田では新旭炭鉱、空知新炭鉱、北菱美唄炭鉱、北菱産業埠頭美唄炭鉱などがあります。釧路炭田では、「釧路コールマイン」(かつての太平洋炭鉱)が稼働しています。少々脱線しますが、釧路コールマインは、現在、国内では唯一の坑内で掘っている炭鉱になります。掘っている場所は、釧路沖の太平洋の300m以上の海底下です。コストが見合わない立地条件となります。この鉱山は、アジアからの研修生受入と技術者派遣をして日本の進んだ採炭技術や保安技術を海外に伝えたり(炭鉱技術海外移転)、新たな炭鉱技術の開発(石炭産業高度化)が、稼働の目的になっています。その過程で、年間55トンほどの石炭を掘っています。
 さて、築別炭鉱です。この地域の新第三紀層は、下部から原の沢層、羽幌層、三毛別層、築別層、古丹別層に分けられています。石炭を挟在している地層(夾炭層といいます)は、中新世の羽幌層になります。夾炭層の上下には、カラスガイ、タニシなどの化石がでることから、淡水で堆積したものであることがわかります。羽幌層の上には、海成層の三毛別層に不整合に覆っています。
 築別炭鉱は、南北25km、東西20kmに渡って分布している苫前炭田に属していました。苫前炭田は、羽幌炭鉱(羽幌本坑と上羽幌抗)と築別炭鉱に分けられていました。しかし、その開発には、時間が必要でした。
 明治時代(1874年)には、アメリカの地質学者ライマンが調査し、北海道庁も1888年に築別炭鉱を調査しています。その頃から、石炭の存在は知られていたことになるのですが、内陸からの運搬手段がないため、経済的条件が合わたないため、開発が遅れました。1949年からは本格的に開発され、国内有数の炭鉱となり、年間100万トン以上も採掘していました。鉄道が敷かれ、国鉄(当時)も乗り入れることになりました。築別炭鉱の石炭は、水分が少なく、燃えやすく(高カロリーといいます)、良質(亜瀝青炭)で、発電や家庭の暖房用として用いられていました。
 1960年代のエネルギー革命が起こっていた時、1969年、全体の6割を賄っていた築別抗が、断層にぶつかり採掘ができず、一気に経営が悪化し、追い打ちをかけました。会社は1970年11月2日に会社更生手続を申請し、31年間の築別炭鉱の歴史を閉じました。あっという間の閉山劇でした。その時、まだ採掘できる石炭(可採炭といいます)は、3000万トン以上あったとされています。また、7500人余りの炭鉱関係者がいましたが、放り出されることになりました。
 築別炭砿の跡地には、炭鉱アパート、小学校、貯炭場(ホッパーと呼ばれています)、病院、消防団庁舎、発電所などの遺構がありました。天候が悪いときに訪れたせいもあったのか、鉱山跡はより寂しさがありました。


Letter▼ 学生がいない大学・推敲中

・学生がいない大学・
新型コロナウイルスの流行はまだ継続中です。
あいからわず、大学の研究室に毎日来ています。
学生は入構禁止なので、
メールでの連絡が主になります。
教職員の打ち合わせが時々ありますが、
行事の取りやめとともに、かなり減っています。
学生がいない大学は、寂しいところです。
3月末からは入構禁止がとけますので、
学生たちも戻っていきます。
もちろん何事もなければの話ですが。

・推敲中・
現在、本の執筆しています。
初稿ができて、推敲を進めている最中です。
新型コロナウイルスで学生対応や行事が減ったおかげで
研究や執筆がはかどっています。
うまくすれば、今月中に原稿ができそうです。
まあ、原稿ができても、印刷まで推敲は続けていきます。
でも、2回目の推敲で一段落となりそうです。



もどる