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Essay ▼ 175 宗谷岬:林蔵の旅立ち
Letter▼ 間宮林蔵・冷夏・夏休み


間宮林蔵歩いたルート。


間宮林蔵の歩いたルート。


宗谷岬のモニュメント。


宗谷岬のモニュメント。。


近くに見える樺太。


間宮林蔵の像。


間宮林蔵の像。


間宮林蔵が出港した地の碑。

((2019.07.15)
 日本最北の宗谷岬に立って、北の方を眺めると、海の先に陸の影が見えます。樺太(カラフト)です。海峡は狭いです。カラフトと大陸の海峡も狭い、ということを発見した間宮林蔵の話です。


 道北(北海道北部)には、ノシャップ岬と宗谷岬が、2本の角のように北に突き出しています。西がノシャップ岬、東が宗谷岬になり、宗谷岬が日本最北端の地なります。そこが観光地として有名です。道北を訪れた人の多くは、宗谷岬へいくことになります。そして、「日本最北端の地」という三角のモニュメントがつくられています。そこから海をみると、天気が良ければ、陸が見えます。樺太(カラフト)です。以外に近く感じます。宗谷海峡は狭いということです。
 モニュメントでは、多くの人が記念写真を撮っています。私も宗谷岬には何度がいっていますが、そのたびに撮影しています。今年5月にも宗谷岬に訪れました。そのときに、はじめて気づいたものがあります。三角のモニュメントの近くに像がありました。像は、間宮林蔵です。何度も来ていて、見ているはずなのですが、注目していませんでした。記憶にもありませんでした。
 間宮林蔵は、北海道には関わりが深いので、大学生のときに伝記を読んだ記憶があります。そのときにはある程度間宮林蔵のことを知っていてました。そして、何度か宗谷岬に来ています。ですから、知識のある人の像を見ているはずです。目に入っていたのでしょうが、記憶に残っていませんでした。この林蔵の像は、生誕200年を記念して、1980年7月に建てられたものです。
 宗谷岬から少し西にいった稚内市宗谷村清浜には、「間宮林蔵 渡樺(とかば)出港の地」という石碑と案内板があります。樺(かば)とは樺太のことです。ここも何度か訪れているはずですが、まったく記憶にありません。今回はじめて、その内容に気づきました。北海道の中でも、宗谷岬は林蔵とはゆかりが深い地のようです。訪れた時は、波がありましたが、穏やかな波であれば、カラフトまですぐに行けそうな距離です。
 今回は、宗谷岬ではなく、間宮林蔵が主役となります。
 林蔵は、江戸時代後期の1780(安永9)年に、常陸国筑波郡(現在の茨城県筑波郡)で農民の子として生まれました。数学の才能があったので、幕臣の村上島之丞(しまのじょう)に見いだされて、1799年19歳の時、幕府に雇われることになりました。そして、1800(寛政12)年に蝦夷地御用掛雇(えぞちごようがかりやとい)となり、村上に従って北海道に渡りました。以降、1822年で43歳までの23年間、北海道で活動していました。
 林蔵の有名な成果は、樺太が島であることを発見したことでしょう。それを讃えて樺太と大陸の間を「間宮海峡」と呼ばれています。これは探検的成果といえるでしょう。林蔵は、そのために2度にわたって樺太の調査をしています。
 一度目は、松田伝十郎の従者として1808年4月13日(新暦5月8日 日付は稚内市教育委員会の碑の説明による)から6月20日(新暦8月11日)まで、探索しています。宗谷岬から樺太の南端のシラヌシ岬(現在のクリリオン岬)に渡りました。松田は樺太の西岸を、林蔵は東岸を手分けして進みました。しかし、林蔵はタカラ湾のシャークコタン(現在のポロナイスキー・ガスダールストヴェンニ・プリロドニ・ザポヴェドニクあたり)で先に進めなくなりました。まだ緯度でいうと、樺太の半分も進んでいなかったのですが、仕方なく引き返しました。
 樺太の一番細くなっているマーヌイ(現在のフスモリエあたり)で西海岸へむけて樺太を横断して、クシュンナイ(現在のイリンスコエあたり)へ出ました。そこから北上して、松田を追いかけ、ノテト(現在のトラムバウスあたり)で合流しました。合流後、ラッカ(現在の地名は不明あたり)まで進みました。その当たりは、樺太と大陸がもっとも近くなる海峡の入り口に当たります。そこで調査をして、樺太が島だと推定して、「大日本国国境」の標柱を建てました。林蔵は樺太が島だとの確信が、必ずしも持てなかったのでしょうか。不明ですが。そして、二人は宗谷岬に戻ってきました。3ヶ月弱の調査でした。
 林蔵は、報告をすませた後すぐに、さらに奥地の探索を願い出ています。それが許されると、20日ほどあとの7月13日(新暦9月3日)には、単身で樺太に2度目の調査に向かいました。
 樺太についてすぐに、現地のアイヌ人を雇い、西海岸を進みました。黒竜江(アムール川)の河口の対岸にあたるカラフトの北海岸のナニオー(現在の地名は不明)までいき、広い海になることを確かめ、樺太が島であることを確認しました。
 その冬は樺太のトンナイ(現在のネヴェリスク)に留まり、越冬した後、春に再度調査に向かいました。現地に住む人から、黒竜江(アムール川)下流の町のデレンに清国の役所があることを聞きました。海峡を渡ってアムール川下流を調査しました。1809年9月(新暦11月)に宗谷に戻りもどりました。1年以上樺太に滞在し、単独(アイヌ人従者やギリヤーク人の案内は同行)で、樺太と黒竜江周辺の調査をしました。すごい精神力です。
 これが林蔵の樺太の探検的調査の概要です。
 林蔵は、地理上の重要な成果として、北海道の地図のための測量があります。精密な日本の実測地図は、伊能忠敬(いのう ただたか)によってつくられました。忠敬は、日本のほぼ全体を測量しながら歩ききり、正確な地図にまとめたのですが、北海道の測量図の一部は林蔵によるものだとされています。
 林蔵は、蝦夷地御用掛雇になった1800年、箱館に来ていた忠敬に会い、師事し、天測術(緯度測定法)を学びました。林蔵は、その技術で、国後場所(国後島、択捉島、ウルップ島)に派遣された1803年には西蝦夷地を測量し、1806年には択捉(えとろふ)を測量しています。樺太の探索が終わった1812年からは、蝦夷地で忠敬の未測量地域の海岸を実測しています。
 1821年に完成した忠敬の「大日本沿海輿地(よち)全図」には、林蔵の測量が活かされているといわれています。一説によると、北海道のかなりの部分は、林蔵の測量図を、忠敬が利用していたともいわれています。また精度も忠敬より高かったとされています。北海道以北は、忠敬と林蔵の合作ともいえます。林蔵は、北海道の地理においては、非常に重要な役割を果たしたことになります。現在なら、弟子の成果を師が奪ったと問題にされるでしょうね。
 林蔵は、19歳から42歳まで、青年期から壮年期まで、北海道に捧げたといってもいいでしょう。林蔵にとって忠敬は師であり、測量技術を学んでいます。忠敬が十分測量できなかった部分を、林蔵が測量しました。恩師の偉業の一端を弟子として担えたのです。それは大きな喜びだったのではないでしょうか。林蔵たちが生きていた時代は、自身の業績よりも純粋に学問を楽しんだり、目的を達成することに満足感を持っていたのではないでしょうか。今の日本、世界は、自身がどれだけの業績を上げたかを示すことが、重要視されています。その権利として主張しています。せちがない世の中です。
 若き林蔵にとって、特に2度目の樺太の単独調査は、自身の実力を確かめる大きな契機となったと思います。宗谷岬での旅立ちのとき、自身の単独での探索への不安と緊張があったことでしょう。探索を終えて戻ってきたときは、自身の探査の能力の確信と達成感は、大きかったに違いありません。宗谷岬は林蔵にとって想い出深い地だったのでしょう。


Letter▼ 間宮林蔵・冷夏・夏休み

・間宮林蔵・
間宮林蔵の本は、手元にないので確認できません。
小説で読んだような気がしますが、
ノンフィクションだったかもしれません、
記憶が不確かです。
検索してみると、吉村昭の「間宮林蔵」という小説があります。
これかもしれませんが、覚えていません。
1回目の樺太で林蔵が単独だったとき
それ以上、進めなくなったときの苦境が
書かれていたのをぼんやりと覚えています。
機会があれば、読んでみたいと思います。

・冷夏・
全国的にエルニーニョの影響で各地で
平年にない異常気象が起こっています。
北海道は冷夏です。
昼間、暑くて窓を開けていますが、
朝夕には寒くなるので窓を閉めます。
しっかりと布団かけて寝ます。
暑いのが苦手なので、
私には過ごしやすくていいですが、
農業への影響が気になります。
日照時間は、大丈夫のようですが、
気温が低い状態がつづています。
農作物にどのような影響があるのか少々心配です。

・夏休み・
大学は、前期の講義も終盤となります。
学生は、そろそろ夏休みのことを考えていることでしょう。
3年生と4年生のゼミ学生との飲み会が
講義の終わりに設定されています。
学生には、前期の打ち上げとなるでしょう。
教員は、8月のお盆前までは、校務が続きます。
私は、長期の野外調査はすでに手配しています。
8月下旬から9月上旬にかけて出かけます。
ただし、土、日曜日は大学の校務の分担があり、
空き時間が限られているので
予定は早めに決めて、その日程をおさえています。
9月の帰省も手配しています。
いつもの夏休みになりそうです。



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