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Essay ▼ 158 熊野古道:熊楠への思いは千々に
Letter▼ 熊楠の曼荼羅・行けないところ


熊野古道の大門坂の入口。


南方熊楠の定宿の大阪屋。


 古道を歩く昔の装束の女性ふたり。


古道の杉の大木。


古道の石段。


古道の石段。


古道の石段。


古道の石段。


最後の石段。


那智の滝を眺める。


那智の滝。


古道と杉の大木のパノラマ。

(2017.02.15)
 今回は、地質や地形を扱うことのない旅です。南方熊楠が愛した熊野の森と古道を歩いた時に、心に浮かんだ思索の旅です。かつての熊楠の肉体が歩き回り、精神が飛び回った熊野の森に思い馳せる旅の紹介です。

 最近は、各地でそれぞれの見どころを整備して、観光に力を入れているところが多くなってきた。海外からの旅行者も多くなっているので、宿泊に困ってしまうようなこともあります。観光地の整備は、世界遺産のような大きなものだけでなく、自然や地質が好きな人には、ジオパークも増えてきて、名所を見てまわるときにも便利になりました。
 今回は那智の滝を訪れた時の話です。世界遺産になっていまうので、道は整備されています。那智の滝は、なかなか見ごたえのあるもので、何度か来ていますが感動します。
 昨年秋、那智の滝を訪れたとき、熊野古道を歩いて登っていきました。今まで目的地への通り道として古道を歩いたことがありましたが、今回は古道を意識して歩きました。同じ所を訪れていても、今回は心の旅となりました。自然と哲学、そして心を扱った、偉大なる先人ゆかりの地から、心が触発された旅となりました。
 那智を訪れたのは9月だったのですが、その日は曇っていて、暑い日でした。大門坂の古道登り始めてすぐのところに、大阪屋がありました。この古道を歩きたかったのは、大門坂の入口近くある大阪屋の跡地を見るためでした。
 熊野は、南方熊楠(みなかた くまぐす)が粘菌の調査をしていたところでした。以前、田辺にある自宅とその顕彰館は訪れていました。彼の自然科学と人文科学の両面に渡る学問のすごさと、考えの柔軟さ、そして学問に取り組む姿勢の真摯さ、そして奇人ぶりに興味が惹かれていました。生涯を在野で過ごした孤高の博物学者(私の用語でいえば自然史学者)でした。私の目指す科学者の理想像で、できれば熊楠の哲学を、なんとか理解したいと思っていますが、まだまだ道半ばです。
 さて熊楠ですが、明治から戦前の昭和までを生きた人です。江戸時代の最末期の慶応3(1867)年に和歌山で生まれました。小さい頃から脅威的な記憶力で筆写していきます。その奇人変人ぶりも有名です。
 1883(明治16)年に上京して学問を目指します。大学予備門(現・東京大学)に入学したのですが、1886年(明治19年)中間試験で落第したため中退し帰郷ました。熊楠には通常の学問の仕方が合わないようで、自分なりの学問の内容を自身やり方で進めていきます。
 1886年12月22日に渡米しました。アメリカでも、無頼な学生生活をして大学を点々としていました。しかし、その間も博物学の標本採取はおこなっていました。アメリカからキューバを放浪して、1892年9月にはイギリスに渡りました。ロンドンに居を構え、「ネイチャー」に初めて論文「極東の星座」を寄稿しました。この論文がきっかけとなり、大英博物館に出入りするようになりました。大英博物館でも多様な学問分野の文献を読み漁り、全52巻になる「ロンドン抜書」として筆写で、知識を吸収していきます。
 この間、ロンドンに亡命中の孫文と意気投合し、また土宜法龍(どきほうりゅう)とも知り合います。法龍は、シカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として渡米したのち、パリのギメ美術館で仏教関係の資料の調査をして、ロンドンに寄った時、南方熊楠と面会して意気投合します。熊楠はロンドンでも無頼な生活が続けていて、1900(明治33)年に大英博物館から出入り禁止の処分を受けるたので、14年ぶりに日本に帰国します。
 帰国後、1902年から3年間、熊野で植物や粘菌の採取をします。その時の定宿としていたのが、大門坂の登り口にある大阪屋でした。熊野の森は、神社の領域なので伐採などされることなく、自然のまま残されていました。そのため、植物や粘菌などの調査には適していたのでしょう。熊楠が、35歳から38歳まで一番油の乗り切った時代をここで過ごしました。大阪屋は現存しないのですが、跡地の看板があります。大阪屋に隣接していた築130年の松本家屋敷が現存しています。
 その後熊楠は田辺に居を構え、一生をそこで暮らします。帰国しても英語の論文を書き続け、1914年まで「ネイチャー」、1920年まで「ノーツ・アンド・クエリーズ」に投稿をしていました。40歳を過ぎたあたりから、日本語による論文が書かれていきます。
 友人たちに長々とした書翰を一杯書きます。相手により書翰のテーマがあり、それぞれが深い内容になっています。膨大な書翰と日記が残されています。書翰類や文章類は全10巻+別巻2からなる全集となっており、日記も全4巻が出版されています。英語論文の「ネイチャー」と「ノーツ・アンド・クエリーズ」の論文が、それぞれが完訳され出版されました。これらの書籍の発行後も、書翰の発見があり、2冊の書籍となっています。熊楠の真骨頂は、書翰にあります。書翰にこそ、熊楠の思想が宿っているように思えます。
 私は、南方熊楠の文献を収集しその一部を読んでいました。土岐法龍と熊楠の書翰は非常に興味が湧いています。熊楠は法龍と生涯にわたり交流が続きます。熊楠の哲学は、法龍を相手にした書翰(しょかん)で語られます。語り口が熊楠一流のものなので、少々紛らわしかったり、文脈が乱れることがもあるのですが、伝えたいと考えていることには、深い意義があると、私は思います。
 有名なものとして、熊楠の曼荼羅(まんだら)があります。熊楠は子どものころ、密教の親しんでいるため、その時の記憶が曼荼羅の重要性に気付かしたのかもしれません。現在、私は、地質学に関するライフワークをまとめているのですが、その時自然に関する哲学に思いが至ります。自然に関する哲学は私にとっては難問です。そのヒントが、熊楠の哲学にあるのではないか、と思っています。熊楠の曼荼羅に象徴される考えは、私の考えている自然史哲学とどのような接点があるのか、それが私の今後の課題でもあります。
 大門坂から石段が続く、3kmほどの急な登り道が続きます。大きな杉の大木が続き、苔むした道なので、暑さや登りの辛さも和らぎます。苔むした石段を登りながら、こんなところにも粘菌はいるのだろうか、大木に囲まれた大阪屋で熊楠は思索を深めていったのだろうか、などと想像しながら登っていきました。でも、目はついつい石段の石にいきます。石のほとんどが黒雲母花崗岩で、多分この地に分布する熊野酸性岩類でした。街道の近くにあった石を使って作られたものだろうという石への思いもわきます。
 熊楠と書翰、石と粘菌、曼荼羅と哲学と、思いが千々に乱れる旅となりました。


Letter▼ 熊楠の曼荼羅・行けないところ

・熊楠の曼荼羅・
熊楠の曼荼羅はあちこちにデザインされて使われています。
有名だと思っていますが、私だけでしょうか。
ガラス内に3Dで彫刻された置物があります。
また曼荼羅のデジタル画像を
許可とって入手したのですが、
まだ活かすことができません。
残念ですが、今後時間があれば、大量の文献、
研究書類を読み込んでいきたいのですが。

・行けないところ・
昨年訪れた年は、熊楠生誕150年の年でした。
現在、国立科学博物館で
南方熊楠生誕150周年記念企画展
南方熊楠−100年早かった智の人−
が開催されていますが、残念ながらいけません。
白浜にある南方熊楠記念館にいきたかったのですが、
閉まっていたので、訪れることができませんでした。
でもこちらは、別の機会にいくことができます。




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