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Essay ★ 54 牟婁層群:陸と海の輪廻と混沌
Letter★ さらし首・母と運動会


四万十帯の牟婁層群の砂岩と泥岩の互層。海蝕台を形成している。


四万十帯の牟婁層群の砂岩と泥岩の互層。西に傾斜した地層が、整然と並んでいる。


四万十帯の牟婁層群の砂岩と泥岩の互層。褶曲のように見えるが、地層が未固結の状態で流動したスランプ構造と呼ばれるもの。


四万十帯の牟婁層群の礫岩。


四万十帯の牟婁層群の礫岩。海蝕台を形成している。


上の写真で島状に残った部分。


牟婁層群が見られる海岸の20万分の1地形図。


上と同じ範囲をLandsatで撮影したもの。10mメッシュ数値標高を利用して3D化したもの。


上と同じ範囲を地形解析の地上開度で示したもの。非常に険しく、そして複雑に河川解析を受けた様子が分かる。


上と同じ範囲を地形解析の地下開度で示したもの。非常に険しく、そして複雑に河川解析を受けた様子が分かる。


上と同じ範囲を地形解析の傾斜量で示したもの。主要河川と支流の違いが明瞭となる。


上と同じ範囲を10mメッシュ数値標高を利用して3D化したもの。

(2009.06.15)
  牟婁(むろ)層群は、紀伊半島の南部の代表的な地層です。陸から運ばれた土砂や礫が地層となりました。堆積したときは整然と重なっていたものが、陸地に上がり、互層となり、時に褶曲したりしています。牟婁層群は、整然とした輪廻と、複雑な混沌が入り乱れています。それは、過去の海と陸の輪廻と混沌でもありました。

Essay ★ 54 牟婁層群:陸と海の輪廻と混沌

 今年の春、南紀を巡ったとき、「牟婁層群」を見ました。
  牟婁は「むろ」と読みます。もともとは同じ発音である「室」から由来したようです。室は、「いちばん奥のいきづまりの部屋」という意味があります。昔の都のあった奈良や京都から見ると、吉野のさらに奥の地になります。明治までは、紀伊半島の南部を占める広大な地域は、牟婁と呼ばれていました。明治になって、東西南北の4つの牟婁郡に分けられ、三重県と和歌山県に再編されました。
  春の調査は、かつての牟婁の海岸を巡ったことになります。今では、地層名にも牟婁は残されています。
  大学3年生の春に、紀伊半島の西半分の地層を見るための巡検(地質の見学旅行のこと)にでかけました。その当時、私は、地質学でもどのよう分野を対象にするかはっきりとは決めていませんでした。ただ、いろいろな地域の地質を見てみたいと思って、漠然と巡検に参加してました。
  その紀伊半島巡検では、各種の堆積岩を見学しましたが、そのときに、牟婁層群も見ていたはずです。牟婁層群という固有名詞自体は記憶に残っているのですが、どのような地層かははっきりとは覚えていません。ただ、堆積岩にもいろいろなものがあることは印象に残っています。
  その時、案内者の好意で漁船をチャーターしていただいて、横島という小さな島に渡りました。そこでは、オルソクォーツァイト(後述)という不思議な礫を観察し、地質学にロマンを感じた記憶があります。
  ところが、卒業論文では、オフィオライトというマグマが固まった石、火成岩を対象にしてから、地層には見向きもしないで、15年ほど火成岩ばかりを見てきました。
  オフィオライトとは、昔の海洋地殻を構成していたものでした。海洋底を成していたものが、海洋プレートが沈み込むとき、陸の堆積物の中に紛れ込んでしまうことがあります。そのような海洋プレートを構成してた一連の岩石群を、オフィオライトと呼んでいます。オフィオライトは、マントルを構成していた岩石から、沈積岩、深成岩、貫入岩、溶岩など多様が冷え固まり方をした火成岩、海洋底に降り積もった生物の遺骸が固まったチャート、そして陸に近づくにつれ流れてくる陸源の土砂が固まった堆積岩などが上に重なっています。
  オフィオライトの野外調査をすると、このような多様が岩石がでてきました。私にとって、上部にある堆積岩は、分布や分類などを調べることはしましたが、それを研究対象にはしていなかったので、興味をもっていませんでした。火成岩だけを研究対象にしていて、オフィオライトが、どのようなマントルから由来したマグマで、どのようなマグマだまりで固まり、そしていつ噴出したのかを、化学分析から調べていました。
  化学分析では、放射性元素を用いた年代測定、鉱物の微小部分の化学分析、極微量な元素組成などを最先端の分析装置を使って、時には他の研究施設を借りてデータを出したりもしてました。まあ、火成岩を調べるために、非常の特殊な先端技術を利用したり、その分析法の開発の手がけていたことになります。
  私が研究対象にしたオフィオライトは、海のものが陸に上がったわけですから、大きく変形しているものばかりでした。ですから、変形の少ないオフィオライトをみると、それが美しいものだと思えるようになっていました。野外での岩石の見方も、化学分析を前提にした特化したものでした。その目的に合いそうなものが、美しく見えてきたのでしょう。また、堆積岩もみていたのですが、研究対象でもなかったので、美しいとかいう視点で眺めていませんでした。
  ところが、そのような地質学プロパーの研究の方法から、自然の一部として岩石を眺めたり、教育素材として地層や岩石を見るようになると、見方が変わってきました。大きく褶曲した地層や累々と連なる地層などは、大地の営みを直接感じさせるもので、魅力あるものに見えてくるようになりました。露頭の写真で、大きく褶曲した地層があると、実物を見たいと思うようになりました。
  今の私の野外調査対象は、堆積岩を中心とする地層が多くなっています。それは、現在の職場には、分析装置や実験設備がないからでもあり、野外の観察を中心にならぜるえません。試料も、だれでも採取できるような石ころや砂で、室内ではその写真撮影と分類、計測、整理をすることになっています。いわゆる、地質学的研究とは全く違ったアプローチであり、目的となっています。
  大地のダイナミクスの証拠として、さまざまな岩石を眺めるようになってから、日本各地の地層を興味を持ってみるようになってきました。今では、火成岩より堆積岩のほうを見ることが多くなってきました。今回の牟婁層群も、そのひとつの現れでした。
  牟婁層群は、四万十帯という地質帯に属しています。四万十帯は、北から日高川(ひだかがわ)層群、音無川(おとなしがわ)層群、牟婁層群に分けられています。古いものが北にあり、南の方が新しいものとなります。
  四万十帯の北半分を日高川層群が占めています。約1億年前(白亜紀後期)に堆積した砂岩や泥岩からなります。そこに、オフィオライトのチャート、赤色頁岩(深海粘土)、火山岩類などが紛れ込んでいます。
  音無川層群は、5700万年前ころ(暁新世)の地層です。地層の下部は泥岩で、上部は砂岩と泥岩の互層に変わっていきます。これは、当初は砂岩あまり届かない環境から、タービダイトと呼ばれる、海底の地すべりなどによって形成される混濁流によって砂と泥が運ばれる環境に変わってきました。多分、陸に近い環境になってきたのでしょう。
  牟婁層群は、約4000万年前(始新世)に形成されました。砂岩と泥岩の互層から地層で、礫岩を含んでいることがあります。砂岩と泥岩の互層は、それぞれの地層は遠目で見ていると、どれも似通っています。地層の成因が、タービダイトの繰り返しだと知ると、地質現象、あるいは自然現象には、輪廻があり、その履歴がはっきり記録として残ることがわかります。
  乱れなく整然とした地層になっているところもある一方、牟婁層群には、激しく褶曲している場所や地層が内部で乱れているところ(スランプ構造と呼ばれます)もあります。天鳥の褶曲(別名、フィニックスの大褶曲)を見たかったのですが、残念ながらいけませんでした。しかし、小規模な褶曲や、砂岩と泥岩の繰り返しの地層(互層と呼んでいます)、巨礫が転がっている海岸などを見ることができました。
  さて、大学3年生のとき見た横島は、牟婁層群の属していました。そこで見たオルソクォーツァイトも、牟婁層群の礫岩中の礫でした。
  オルソクォーツァイトとは、正珪岩とも呼ばれ、ほとんど石英だけからできている岩石です。石英の化学組成は珪酸(SiO2)なので、岩石の化学組成も95%以上が珪酸になります。顕微鏡でオルソクォーツァイトをみると、丸い石英が集まっていることがわります。その石英の周囲は、赤い幕のように酸化鉄が覆っていることがあります。つまりオルソクォーツァイトは、丸い石英が集まった砂岩なのです。
  丸い石英だけが集まる砂岩ができるのは、大陸の内陸の砂漠や湖、あるいは大陸付近の海岸という大陸内部や、大陸の縁の環境です。オルソクォーツァイトの地層は、先カンブリア紀の大陸地域から見つかります。
  オルソクォーツァイトの地層は日本列島からは見つかりません。ところが、オルソクォーツァイトの礫を含む地層が、稀ではなく、日本列島のあちこちから報告されています。これは、日本列島はかつてユーラシア大陸の端にくっついていたからです。つまり、昔は日本海がなく、あるときに形成されたのです。そのため、大陸の川が、オルソクォーツァイトの地層を侵食し、礫として運ばれ、大陸斜面に運ばれて地層となりました。これが、日本各地のオルソクォーツァイト礫の由来となります。
  ただし、牟婁層群のオルソクォーツァイトには、少々不思議なことがあります。
  ひとつは、礫サイズです。オルソクォーツァイトの礫の径が、2から5cmもあります。大きな礫は相対的には近いところから運ばれたことになります。ですから、比較的近くにオルソクォーツァイトの地層があったはずです。つまり、大陸が近くにあったのです。
  もうひとつは、地層が来た方向です。地層に、堆積するときに生じた流れを記録していることがあります。そのような流れを古流向と呼びます。オルソクォーツァイトの礫を含む地層の古流向を復元すると、なんと現在の太平洋ある海側という結果が出てきました。本来なら陸側であるべきです。これは今は亡き大陸(黒潮古陸と名づけられています)があったという推測ができます。ところが、そんな大陸は海底を調べても見つかりません。
  この謎は、まだ解明されていません。
  礫岩とは、多様な起源の礫が集まったものです。牟婁の海岸に広がる海蝕台の礫岩には、混沌ともいうべき様相を呈しています。互層の織り成す整然とした輪廻と比べると、礫岩とのコントラストは明瞭です。しかし、輪廻の互層も、大地の営みによって褶曲という混沌が起こります。こんな輪廻と混沌が牟婁の海岸では繰り広げられています。


Letter★ さらし首・母と運動会

・さらし首・
牟婁地域には、さらし首層という
これまた変わった名前の地層があります。
さらし首層は、四万十帯には属しますが、
より新しい中新世の統熊野層群の中にあります。
さらし首層は、海蝕台で礫が
ごろごろと残った様からとったのでしょう。
ただの普通の礫ではなく、
メランジェ(混在岩)という
複雑な経歴の岩石です。
メランジェについては、別の機会にしますが、
牟婁には、日本列島の歴史にかかわる
重要な地質現象がいろいろ見られます。
都から離れた牟婁とよばれる地には、
さらし首というおどろおどろしい名称があります

・母と運動会・
子供の運動会を見学するために、
母を京都から呼びました。
長男が今年小学校を卒業するので、
最後の運動会になるからです。
今まで運動会は見学していなかったので、
一度は見た方がいいと思って呼びました。
短い滞在で、落ち着かなかったかもしれませんが、
長男の成長を見る数少ない機会となりました。


「この地図の作成に当たっては、
国土地理院長の承認を得て、
同院発行の数値地図200000(地図画像)、
数値地図50000(地図画像)、
数値地図25000(地図画像)、
数値地図250mメッシュ(標高)、
数値地図50mメッシュ(標高)、
数値地図10mメッシュ(火山標高)及び
基盤地図情報を使用した。
(承認番号 平21業使、第53号)」

解析データは
北海道地図株式会社作成の
高分解能デジタル標高データを使用した。

地図、Landsatの画像合成には
杉本智彦氏によるKashmirを使用した。


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