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Essay ★ 27 大山:火山と人間の休止期の差
Letter★ 露天風呂・甲子園の土


大山の地形図。


大山の頂上稜線の南側の壁。


上の似た構図の鳥瞰CG図。10mメッシュの数値標高を使用。


大山の地上開度による地形解析図。10mメッシュの数値標高を使用。


大山の傾斜量による地形解析図。10mメッシュの数値標高を使用。


大山の地下開度による地形解析図。10mメッシュの数値標高を使用。


大山を北側の日本海から眺めた鳥瞰CG図。10mメッシュの数値標高を使用。


大山を北側の日本海から眺めた鳥瞰CG図。地形図を重ねて作製している。


大山の頂上稜線の南側の壁。


大山の北側山麓には、川の侵食による谷が多数できている。大山を北側の日本海から眺めた鳥瞰CG図。10mメッシュの数値標高図を使用。


大山の北側にある元谷。


元谷側から見た大山の頂上稜線の北側の壁。


元谷側から見た大山の頂上稜線の北側の壁。


大山の北側山麓にある大山寺。

 火山、長い休止期を経た後、活動することがあります。それは、人間には、なかなかマネのできないことです。今回は、長い休止期をもっている火山を紹介しましょう。

★ Essay 27 大山:火山と人間の休止期の差

 鳥取県中央部の山合いに三朝(みささ)温泉があります。三朝温泉は、倉吉市で海にそそぐ天神(てんじん)川の支流の三徳(みとく)川の上流域の三朝町にあります。そんな三朝町に、私は5年間住んでいました。
  当時、大学の研究所が三朝温泉の少し下流側にあったのです。その研究所に、修士課程の学生として2年、しばらく間を置いて、博士課程終了後の研究生として1年、続けて学術振興会特別研究員の2年、あわせて5年いたことになります。後半の3年間は、特に集中して研究しました。
  その後私は、転々と移転を繰り返していたのですが、移転と共に、研究テーマも変わっていきました。公務員でもあったので、研究所に行くことがなく、興味も移ってきました。その後、研究所は、改組や建物の増改築などもあり、大きく変わりしてしまいました。当時のスタッフたちは、まだ何人もおられますが、大きく変わったようです。
  三朝に住んでいた時、大きな町は倉吉市でしたので、よく出かけていました。そんな時、町や日本海沿いでは、西の方に雄大で大きな山が見えました。大山でした。
  大山と書いて、「だいせん」と読みます。大山周辺の山には、「山」を「せん」と読む地名があります。扇ノ山(おおぎのせん)、氷ノ山(ひょうのせん)、蒜山(ひるぜん、上・中・下の3つの頂上があります)、須賀ノ山(すがのせん)、那岐山(なぎせん)などがあります。
  「せん」という読み方は、めずらしく感じますが、音読みとして、「さん」は漢音ですが、「せん」いう読み方が呉音としてあります。山岳宗教の影響もあると考えられていますが、中国地方に「せん」という山の名前が残っているのは不思議です。
  大山は、出雲国風土記では「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、奈良時代以降、山岳信仰の対象の山となっています。大山は、明治の廃仏毀釈までは、大山寺の寺領なっており、一般人の登山が禁止されていました。
  大山は、富士山のような形をしている非常に雄大な山です。富士山のように見えることから、古くから、伯耆富士(ほうきふじ)、あるいは出雲富士(いずもふじ)と呼ばれています。
  大山は、火山です。大山は、北側に広い裾野を持っている風格のある成層火山です。大山の北の裾野は日本海に達しています。国道も鉄道も、大山の裾野を通っています。ですから、これらの場所から、雄大な大山を眺めることができます。
  成層火山は、溶岩や火山灰などの多様な火山噴出物からできます。裾野がなだらかなのは、火山噴出物が繰り返し堆積したためです。また、火山灰は、風化されば、肥沃な土壌になり、大山の裾野は、農耕地帯として田園風景が広がっています。
  車窓から眺める大山の裾野には、田畑の中に、深く削られた谷筋を多数見ることができます。その谷は、大山の山頂に向かっているように見えます。
  谷となっている深い溝は、侵食によるものです。溶岩は固いですが、火山灰などは、柔らかく侵食を受けやすいものです。新しい火山で現在も活動をしていれば、侵食されても火山噴出で堆積を繰り返すので、穏やかな裾野のままでいます。しかし、成層火山でも、活動を長くして休止しているものは、侵食だけが進みます。大山も、そのような火山です。
  大山は、約180万年前から活動をはじめています。その間に数1000年から数万年の休止期をはさみながら、50万年前ころまでに、巨大なカルデラができたと考えられています。このようなカルデラをつくった活動を古期とされています。
  そこに5万年から1万年前にかけて、新期の活動が起こります。新期の火山活動は、現在の山頂を構成している溶岩ドームと呼ばれるものを形成しました。大山をつくったマグマは、安山岩からデイサイトの性質を持つものがほとんどで、時には激しい噴火をしました。
  5万年前のプリニー式とよばれる激しい噴火は、大量の火山噴出物を放出しました。このときの火山灰は、大山倉吉軽石(大山火山灰層とも呼ばれることがあります)とよばれており、大山周辺では数mほどの厚さがあり、鳥取県東部では1mから数10cmほどの厚さとなります。大山倉吉軽石は、遠くまで風にとって運ばれました。北陸、信州、北関東、遠くは福島まで確認されています。このような広域に広がっているの火山灰で時代のはっきりしているものは、広域テフラと呼ばれ、地層の時代区分に利用されています。大山倉吉軽石も広域テフラです。
  2万年前に、激しい火山活動があり、大量の火砕流が流れ、溶岩ドームなどが形成されました。このときにできたのが、弥山(みせん、1709m)、三鈷峰(さんこほう、1516m)、烏ヶ山(からすがせん、1448m)の3つの溶岩ドームです。
  弥山と三鈷峰は隣接していて、これら2つのドームが現在の大山の主稜線をつくっています。烏ヶ山は弥山からみると南東側にあたります。弥山の北東側に三鈷峰はあります。弥山から東に続く稜線は、一等三角点(1710.5m)を通り、最高点の剣ヶ峰(けんがみね、1729m)にいたり、そこから北に曲がって、三鈷峰に至ります。
  大山の火山活動は、約1万年前で終わりました。それ以降、噴火記録の記録はありません。1万年前以降、火山活動をしていないため、大山は侵食を受け続けています。裾野では、柔らかな火山灰を、流水が侵食していったのです。裾野の深い谷は、そのような侵食の証拠なのです。
  大山の主稜線を形づくっている弥山と三鈷峰の溶岩ドームでも侵食は進んでいます。その北側の裾野から、弥山の山頂までは、登山可能す。しかし、弥山から三鈷峰にいたる稜線は、急峻で侵食が激しく崩れやすく、現在、縦走が禁止されています。
  稜線は特に南と北向き斜面での浸食が激しく、ふもとからみるとまるで切り立った壁のように見え、それぞれ南壁と北壁と呼ばれています。北壁の下は、元谷と呼ばれ、元谷の下流側には大神山神社の奥宮や大山寺があります。
  地表のでっぱりが、侵食を受けるのは、自然の節理でもあります。特に、日本海側に面する山陰地方は、季節風や風雪により、浸食を受けやすい環境です。まして、1万年前から活動をしていない火山ですから、大山は激しく浸食を受けています。
  大山は、遠目で見ると穏やかな山容にみえますが、山頂周辺の稜線が嶮しいのは、激しい侵食という理由があったのです。
  ただ、1980年代から、大山への登山者の急増によって、登山ルート周辺が踏み荒らされ、緑がなくなり、雨水による浸食が激しくなりました。これらは、人為による自然破壊が起こっていると考えられています。そのため、「一木一石運動」が、官民協同して取り組まれました。その運動によって、登山者は、一つの石を持って登って浸食溝をうめたり、植物の苗を植えたり、木道を整備したりして、徐々にでありますが、自然が回復つつあるようです。
  大山全体の侵食は、1万年間、活動をしていないためです。しかし、上でも述べましたように、大山は、数万年以上の長い休止期間の後に、再度火山活動を行ったことが知られています。ですから、大山がもう活動をやめた火山と見なすのは、危険なことです。
  私が三朝の研究所にいた時は、ある元素の分析(鉛の同位体)を中心に研究をおこなっていました。その元素を、非常の微量でも化学的に抽出する手法や装置で分析する方法などを、いろいろ試行錯誤しながら、3年間で完成させていきました。今もその手法は、研究所で改善されて利用されています。
  私は、三朝で行っていた研究は、転職後も続けるつもりでいました。しばらくは、環境が整わないので、その研究テーマは休止のつもりでいました。私は、別のことに興味を持ち出すと、そちらにのめり込んでしまうタイプです。ですから、現在ではその研究テーマは、休止から中止になってきました。
  研究所を離れて早16年もたちました。しかし、研究所時代のことは、今も思い出します。当時は、若さにまかせて、強い目的意識に突き動かされながら、夜昼なく研究に没頭していました。その結果、非常に苦労して目的を達成したことは、その後の人生を送っていく時に、大きな自信を与えてくれました。
  現在の私には、そのような分析から離れて、長い時間が過ぎ去りました。昨年秋、近くの大学にいる先輩から、当時私がやっていた元素の分析について話をしたいという連絡を受けました。私は、関連する資料を携えて先輩のいる大学に出かけました。彼も、ある故人の先輩から、その分析をすることが頼まれていたので、なんとか叶えたいということでした。大学院生が、その元素の分析ができるように、手助けをしてくれと頼まれました。私は引き受けたのですが、彼らも私も、どうも気力が湧かないようなので、分析はうやむやになってしまいました。
  人間は、一度中止という気持ちを持つと、以前のような気持ちに再度高めるのはなかなか困難なようです。まして、今別のことに興味をもっているとなおさらです。私は、今の興味に活動中なのです。


★ Letter to Reader 露天風呂・甲子園の土

・露天風呂・
三朝温泉街の三徳川に三朝大橋があります。
その橋の袂の川原には、「河原風呂」と呼ばれている
無料の露天風呂があります。
脱衣所は男女別にありますが、湯船は混浴です。
メインストリートのある橋から丸見えの露天風呂なので、
入るのにはなかなか勇気が要ります。
三朝に住んでいた時は、何度か入ったことがありますが、
数えるほどしかありません。
それは研究所内に職員用の温泉があったからです。

・甲子園の土・
甲子園球場のあるとことは、もともと砂地で、土も白っぽいところでした。
そのため、ボールが見にくいという問題がありました。
ボールを見やすくするために、
黒っぽい色の土を混ぜるということが考えられました。
当初は淡路島の土を混ぜていたのですが、
現在では、白砂は中国福建省のものを
黒土は、大山の火山灰を混ぜて使われています。
大山の火山灰の最上位層にあたる「黒ぼく」と呼ばれる土です。
季節の雨量と日差しの違いで、
春には砂を多く、夏には黒土を多くしているそうです。


の地図の作成に当っては、
国土地理院長の承認を得て、
同院発行の2万5千分の1地形図を使用したものである。
(承認番号 平15総使、第140-623号)

10mメッシュ標高データ及び解析データは
北海道地図株式会社作成の
高分解能デジタル標高データを使用した。

地図、Landsatの画像合成には
杉本智彦氏によるKashmirを使用した。


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