もどる


画像をクリックすると大型の画像が見ることができます。
ただし、大きなファイルの場合がありますので注意ください。

Essay ★ 23 木津川:剛より柔を
Letter★ 子供と川・母


木津川、宇治川、桂川が合流して淀川になることに、小椋池の干拓地がある。10mメッシュ数値標高と地形図を合成したもの。


 上と同じ位置を50mメッシュ数値標高と地形図を合成したもの。


 上と同じ位置をランドサット衛星画像と10mメッシュ数値標高を合成したもの。


木津川から淀川の下流の地上開度による地形解析図。


木津川から淀川の下流の傾斜量による地形解析図。


木津川から淀川の下流の地下開度による地形解析図。


小椋池の干拓地周辺の地形を10mメッシュ数値標高地図を使用して、示したもの。


上と同じ位置を傾斜量による地形解析図で示したもの。宇治川沿いの自然堤防の位置、天王山の狭い地形などがよく分かる。

 自然に対して人間は、剛で接しているように思います。しかし、私の故郷にある流れ橋から、柔の接し方があること教えてくれます。そんな私の思い出の川と橋の話です。

★ Essay 23 木津川:剛より柔を 

 このメールマガジンの読者の方々は、故郷から離れて暮らしておられるのでしょうか。私は、19歳で故郷を出てから、日本各地を点々して、今では北海道に居を構えています。私の故郷は、京都府城陽市というところですが、そこには、今も母や弟そして親戚が住んでいます。北海道に住むようになってから、なかなか帰省することができなくなりました。
  自宅を出て大学生として、ひとりで暮らしているころは、帰省すると京都や奈良など、今では観光地となっている歴史を持つ神社仏閣などの名跡をいろいろめぐっていました。その理由は、学生で時間があったこともさることながら、故郷をめぐる私の心情の変化があったためです。
  私は京都で生まれ育ったのですが、その風土、風習が住んでいるときはあまり好きなれなかったのです。遠くの大学を選んだのも、故郷の呪縛から逃れたいということも、理由の一部となっていました。ところが故郷を離れて、自分の生まれ育った風土を冷静に見ることができ、嫌なことばかりではなく、いいところもたくさんあることが分かってきました。そのいいこと探しの最初として、故郷の歴史に注目したのでした。
  ところが、仕事を持ち、家族ができてからは、私も忙しくなってきたので、なかなか時間がとれず、帰省しても親戚や知り合いに会って、出歩くことはなく、急いで帰ることが常となりました。最近、故郷の山野を見たいという気持ちがでてきました。それは、北海道の自然と私の故郷の自然の違いによるためだという気がします。
  北海道の自然は、科学を志した後に接したもので、科学を通じて身近になってきたものです。そして現在は、その自然の中に暮らしています。北海道の自然を見るとき、ついつい自分の故郷の自然と比べている自分によく気づきます。故郷で子供時代を過ごし、故郷の自然が私にとって自然の原点となっています。
  ところが、その故郷の自然は、子供頃から高校までの30年以上も前の記憶だけなのです。記憶の中の自然は、現実離れしているような気もするし、まだどこかにそのような自然が残されている気もします。現在の故郷の自然を直接感じたいという気がしています。原点が故郷の自然あるのに、長らく接していないという焦燥感の現われかもしれません。
  私の故郷には、木津川という大きな川がありました。木津川の流域付近は農耕地が広がっていてました。現在は調整区域を除くと、宅地化が進んでいて、農耕地も私が育った頃と比べるとだいぶ減りました。
  私が小学校低学年くらいの頃には、木津川で夏にだけオープンする水泳場があり、近鉄も臨時の駅ができ停車しました。両親に連れられて、そこで泳いだこと、水が冷たかったこと、昼食のカレーライスなどを覚えています。小学校の頃になると、自転車で木津川に遊びいきました。親戚いとこが木津川の堤防の脇に住んでいましたので、流れ橋付近ではよく遊びました。思えばこの頃の木津川が、私の川の原風景として、今も残されているようです。
  流れ橋は、現在もあり、テレビと時々見かけるので、木津川はあまり変わりはないなと知ることができます。なぜテレビで見かけるかというと、時代劇の撮影場所として、流れ橋がよく利用されているからです。時代劇に大きな川と長い木橋は、大抵この流れ橋が使われています。京都の大覚寺と並んで時代劇のロケ地として有名です。
  さてこの流れ橋ですが、川と人との付き合い方の一つの象徴ともいうべきものだと、昔も今も感じています。
  木津川は、淀川の支流のひとつです。琵琶湖周辺の山々から集まった水が、琵琶湖になり、琵琶湖から瀬田川を経て宇治川になり、桂川と木津川が合流したとこから、淀川と呼ばれます。日本の河川と特徴として、急流であることがあげられますが、淀川はさらに特殊な状況があります。
  琵琶湖の湖面の標高は84mありますが、宇治の平等院あたりで平野部に入りますが、標高は15mまで下がります。宇治川には、琵琶湖があり、平野部になる直前に天瀬ダムという大きなダムがあり、洪水を防いでいます。ところが、木津川には山奥の標高150mあたりにダムがありますが、そのより下流にはダムがありません。大雨が降ると、山地からの雨水は一気に木津川に流れ込むことになります。
  淀川となって京都盆地を抜けるところに、天王山があります。天王山は枚方になり、南北から山地が狭まっていることろです。その天王山を抜けると、生駒山地の西側に広がる河内平野へとでます。河内平野は、縄文海進があった7000年前頃には、海が入り込み、河内湾となっていました。その後、海退と河川からの土砂の流入で埋まり、1600年前の弥生時代には河内湖となり、やがて湿地から平野へと変化してきました。
  宇治川と木津川の間には、巨椋池(おぐらいけ)がありました。巨椋池は、周囲16km、面積7.94平方kmほどありましたが、水深は浅く90〜120cmくらいしかなく、湿原のようなものでした。そして、地形から分かるように、しょっちゅう氾濫する地域であり、長らく湿地のままにされていました。
  淀川の本流である宇治川の明治時代に治水が進み、巨椋池には宇治川からの水の流入が減ってきました。そのため、藻が多くなり、水質が悪化し、漁獲量が減少し、またマラリアも発生し、米不足による食料増産が求められていました。
  そのような社会情勢から、1931(昭和6)年に干拓事業が承認され、1933年着工、1941年に完成しました。その時、多くの韓国朝鮮人が労働力となりました。今でも付近には在日コリアンがたくさん住んでいます。私が子供の頃にも在日コリアンの家族が近所におられ、一緒に遊んだ記憶があります。
  淀川流域には、京都や大阪の市街地が平野部にあります。ですから、治水には古くから取り組まれてきました。しかし、約30年の間に10回もの大出水を記録するなど、つねに洪水の危険にさらされてきました。1953年の台風13号では淀川水系に大洪水をもたらし、最近では1972(昭和47)年の台風20号で、私の町でも洪水がありました。現在では、木津川と宇治川の合流からの下流域では、スーパー堤防をつくり、洪水から町を守ろうときう事業が進められています。
  さて、流れ橋です。流れ橋は、八幡の石清水八幡宮に参拝する人たちや地域の住民のために渡し舟があったのですが、1953(昭和28)年に橋がかけられました。延長356.5m、幅3.3mの木造橋です。戦後のことなので予算がなく、安くするために、木で流れ橋がつくらました。木津川は洪水が頻繁にあり、木の橋では、洪水なるたびに、すぐに流されてしまいます。そこで考案されたのが、流れ橋でした。
  流れ橋とは、橋が流れるということですが、この橋はもともと、川が氾濫したときに流れてもいいように設計されています。どういうことかといいますと、橋が洪水で流されるのは、次のような状況があるためです。
  橋脚は、川の流れと平行になり、水流によってもそれほどの抵抗は受けません。ところが、橋板まで水位が上がると、流れに対して抵抗が強くなり、流木などが絡まると、さらに抵抗を増し、やがては壊れてしまいます。
  流れ橋は、橋脚も橋板も木で出ています。そして、橋板は、ワイヤで結ばれていますが、橋脚の上に載せられいるだけです。橋板は幅20cmほどの板が、全長を8分割されてワイヤで連結され、そのワイヤの端はそれぞれ橋脚につながれています。なぜこのような安易が構造なのかというと、流れうるのが前提として作られているためです。
  洪水が橋板までくると、木の橋板は水にい浮きます。そして流れていきます。しかし、ワイヤでつながれ、その端が橋脚につながれていますから、洪水の中を橋板が浮いているわけです。このような構造で、橋板も流出することなく、回収可能となっています。
  流れ橋は、平成になってからも6回以上流されていますが、そのたびごとに、復旧されています。流れ橋は、苦肉の策だったのかもしれませんが、智恵が絞られています。そして、柔よく剛を制すということわざがぴったりかもしれません。西洋風のコンクリートの「剛」で自然に抵抗する方法と、まったく違った方向性をもっています。それも、地域の川の性質をよく知った上での対処です。自然の力に対して、「剛」ではなく、「柔」という対処があることを教えて組くれます。
  私の少年時代の木津川は、高度成長期には、川砂利の採取が盛んになりました。採取跡には深い水溜りが各所にでき、そこで水難事故がありました。そのために、学校から、木津川では遊ばないようにいわれ、かわりに近所の小川や山が、私の遊び場となりました。
  それ以降、私の木津川の記憶の糸がそこで切れています。もちろん、電車や車から木津川を眺めることありましたが、自然を感じることができません。新たな記憶を取り戻すために、木津川にいってみたいものです。そして柔の橋、流れ橋を渡ってみたいものです。


★ Letter to Reader 子供と川・母

・子供と川・
私の子供たちは、神奈川で生まれているのですが、
その地の記憶は、ほとんどのないようです。
彼らの自然の原点は、北海道の自然になるでしょう。
彼らの川の原点は、どんな川になるのでしょうか。
私は自然の川に接してあげたいと、思っているのですが、
大きな川への立ち入りが難しく、
自然の川原がなかなかみつかりません。
近くになる石狩川で、自然の川原のあるところへは
長年探してきたのですが、まったく近づけません。
せっかく近く石狩川があるのに、
コンクリートの川原しか子供たちは知りません。
そんな川しか知らない息子たちは、大きくなったとき、
川とはどのようなものだと思うでしょうか。
川遊びなど知らない子供にはしたくないと、
せっせと自然の川原を探しては出かけています。
多くの川では、剛の管理がされています。
しかし、子供と川とは、柔での接し方があっていいのではないでしょうか。

・母・
母は、今、畑に精を出しています。
もともと我が家は農家なのですが、
祖父が主に農業をしていました。
そして両親は自宅で下請けの仕事をしていました。
しかし、父が死んでから、母は隠居だといって、なぜか農業を始めました。
それが、今では、まさに生きがいとなっています。
年々その意気は上がり、冬場でないと、長い休みは取れないようです。
私たち家族が北海道に来たばかりのころは、
呼べばいつでもきていました。
そして1週間から10日ほど滞在してました。
ところが、最近では、畑が忙しい春から秋にかけては、
1週間も明けられないといって、来なくなりました。
ですから、最近では、一番暇になる、
年の暮れに来て、1月1日に帰ります。
今年もそのスケジュールです。
我が家で、簡素の正月して、飛行場へ送っていきます。
そして故郷で、弟夫婦となど親戚が来る正月をしています。
母が来たら、温泉を毎日のように、行くことにしています。
こんな関係が長く続くことを願っています。


の地図の作成に当っては、
国土地理院長の承認を得て、
同院発行の2万5千分の1地形図を使用したものである。
(承認番号 平15総使、第140-623号)

10mメッシュ標高データ及び解析データは
北海道地図株式会社作成の
高分解能デジタル標高データを使用した。

地図、Landsatの画像合成には
杉本智彦氏によるKashmirを使用した。


もどる