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Essay ★ 10 相模川の段丘:関東平野の西に住んで
Letter★ その後の転居


10mメッシュ標高データから作成した鳥瞰図。
10mメッシュ標高データと地図画像を組み合わせた鳥瞰図。


10mメッシュ標高データとランドサット衛星画像を組み合わせた鳥瞰図。


相模川の中流から下流域の地形図。


相模川の中流から下流域の地形図。上の図の同じ位置の地図だが彩色方法を変えたもの。


上の図の同じ位置を10mメッシュで標高に応じたの彩色をしたもの。 地形の高度分布がよくわかる。


上の図の同じ位置の傾斜量図。


上の図の同じ位置の地下開度図。


上の図の同じ位置の地上開度図。段丘の地形が良く見える地形解析の方法である。


地上開度図で段丘地域を拡大しましたもの。複雑な段丘の様子が分かる。


地上開度図で段丘地域をさらに拡大したもの。段丘自身が浸食を受け複雑な地形を作っていることがわかる。


高度10kmより見た鳥瞰図。東から見た相模平野と相模川をランドサット衛星画像と数値地図で作成。 青の線は相模川の流路を示している。


高度10kmより見た鳥瞰図。東から見た相模平野と相模川をランドサット衛星画像と数値地図で作成。 青の線は相模川の流路を示している。上とは仰角を少し変えて作画した。

上と同じ条件で数値地図だけで鳥瞰図を作成した。

 かつて関東平野の西側の坂の多い街に、私は住んでいました。毎日、その坂を上り下りしながら、その坂道の起源に思いを馳せていました。

★ Essay 10 相模川の段丘:関東平野の西に住ん 

 私は、11年間、神奈川県に住んでいました。11年間、ずっと同じところに住んでいたのではなく、その間に4回も転居しました。その理由はさまざまですが、いずれにしても、移りたくて移ったのではなく、しかたなくという消極的な転居でした。この転居は、東から西へと住処を移していきました。そして住環境の変化のたびに、そこにどんな大地の歴史があるのかに思いを馳せました。
 最初は横浜市内の保土ヶ谷というところに、2年間、住んでいました。帷子(かたびら)川沿いに走る相模鉄線の保土ヶ谷駅から降りて、長い坂を上って登って帰途についていました。毎日登ったこの坂は、多摩丘陵が帷子川に侵食されてできたものでした。
 次に転居した先は、海老名市でした。相模鉄道の海老名駅は終着駅です。海老名駅に着く直前に、電車は山並みを抜けて平地に出ます。海老名市は、相模川の流域に広がる平地に発展してきました。私の住んでいたところは、電車が通り抜けてきた山並みの上にありました。ここでも毎日坂を登って帰宅しました。この坂道は、相模川がつくった低地から座間丘陵から相模原台地へと変化するところでした。
 私が身を持って体験していた急な坂には、大地の不思議が隠されていました。
 関東平野は有名な平野です。首都圏は、この関東平野を中心に発展してきました。関東平野は日本でも特別広い平野です。広さでは第2位である北海道の根釧平野と比べても、関東平野は3倍ほどの広さがあります。
 なぜこのような広い平地があるのでしょうか。
 それは、関東平野が、日本の他の平野とは違って、もともと海であったかところが平野になったためです。実際の海底でたまった堆積物が関東平野のいたるところから見つかっていることが証拠となります。ただし、地表に堆積物があちこちにでているのではなく、関東平野の地下をボーリングすると、海底で厚くたまった堆積物が見つかります。
 では、なぜ海が陸になったのでしょうか。3つの理由が考えられています。
 一つ目の理由は、大地の隆起です。
 関東平野のある地域は、ユーラシア大陸プレートに太平洋プレートとフィリピン海プレートの沈み込むとこです。また、丹沢山地や伊豆半島の陸地が衝突してきたところです。関東平野のあるところは、3つのプレートがせめぎあっている非常に複雑な位置にある場所となっています。詳細はまだ良くわかっていませんが、そのようなプレート境界の複雑な大地の運動によって、関東平野は第四紀に隆起してきました。今まで海底であったところが隆起したため陸になってきました。
 もう一つの理由は、海に大量の堆積物がたまり、海を埋めていったことです。
 第四紀になると、関東平野の北にある妙義山、浅間山、榛名山、赤城山、男体山、那須山などの火山と、西側にある伊豆箱根、富士山などで、激しい火山活動がおこります。このような火山活用によって、大量の火山噴出物が、関東平野に飛んできて、たまっていきます。関東ローム層も、これらの火山活動のよって飛んできた火山灰や、それが風で引き飛ばされてたまったものが、もととなっています。大磯丘陵では箱根と富士山の火山噴出物で300m以上の厚さのローム層があります。
 三つ目は、全地球的に起こる海水面の変動です。これは後で詳しく紹介しますが、その前にあらためて、関東平野の地形の概要をみていきましょう。
 関東平野の北側と西側には関東山地があり、北東には阿武隈山地があります。南は房総半島まで続く下総台地から上総丘陵があります。東京湾をはさんで、関東平野の南西部には、武蔵野台地があり、さらに南西に多摩丘陵から三浦半島の三浦丘陵へ連続する高まりがあります。その高まりのさらに西側には、相模原台地と座間丘陵があり、相模川流域の低地があります。
 地形の区分の名称として、山地、丘陵と台地、低地という言葉を使いましたが、それぞれ意味が違っています。
 山地とは、新しい時代の火山と古い時代(中・古生代、第三紀)の地層からできている地形的な高まりで。標高も高く険しい地形となっています。
 丘陵は、第四紀でも一番古い時代にできた、海でたまった地層、湖でたまった地層、扇状地の地層からできています。丘陵は、関東平野を取り囲むようにして山地と平野の間にあります。
 台地は、関東平野の中央に広くある高まりです。台地は、第四紀でも新しい時代にできた、海でたまった地層や、扇状地の堆積物からできます。
 これらの台地が河川によって削られたところが、低地となります。低地は現在の河川がつくった平らな平野です。川の侵食、運搬、堆積作用によってできたもので、現在もその作用は続いています。川が大地の高まりを削り、その削った土砂を運び、川の傾斜がゆるくなったとこで土砂を堆積します。時には、川が氾濫をして流路を変えると、新たな作用がその川の周辺で起こります。こんな繰り返しが、河川流域で低地として広がっていきます。
 河川は、現在も同じ作用を続けているのですが、人間は氾濫があると都会生活が成り立ちませんので、堤防や護岸をつくって、その流路が変わらないようにしています。ですから、都会周辺の河川の変化がなかなか起こらなくなりました。
 さて、今回取り上げた相模川流域では、さらに面白い地形が見られます。
 相模川が丹沢山地と小仏山地の間から城山付近で平野にできてます。山間から平野に出た川は、扇状地や氾濫原をつくります。その相模川の山間部や平野の扇状地付近には、いくつかの平らな面があります。平らな面は、急な崖で、次の平らに面に変わります。これらは段丘(だんきゅう)と呼ばれているものです。
 相模川は古くから段丘の研究がされており、日本でも段丘が典型的に発達する地域(模式地と呼ばれます)となっています。相模川流域では、火山灰の年代測定を利用して、細かく区分されています。段丘が9段あることがわかっています。
 ちなみに段丘の上の面(古い時代)から順に並べると、座間I面(約27万年前)、座間II面(約16万年前)、下末吉(しもすえよし)面(約13万年前)、善行(ぜんぎょう)面(約7万年前)、相模原面(約6万年前)、中津原(なかつはら)面(約3万年前)、田名原(たなはら)面群(群はひとつではないという意味)(約2万年前)、陽原(みなみはら)面群(約1.5万年前)、完新世段丘面群(約1万年前)となっています。
 段丘のでき方には、2通りあります。一つは川の作用によってできる河成段丘(河岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものと、もう一つは海の作用によってできる海成段丘(海岸段丘とも呼ばれます)と呼ばれるものとがあります。
 河成段丘は、大地の上昇によって、川の浸食作用が再び強くなり、かつての川や谷底の平野部が再び侵食されていくことです。ですから、河成段丘は古いものが高い位置で外側にあり、新しいものが低く川に近い位置にできます。
 海成段丘は、海が侵食でつくった平坦地な地形が、海底が上昇することによって陸化しできた平坦な面です。海底が上昇しなくても、海が後退することでも海成段丘ができます。これは、海水面の上下変化と読み直すことができます。
 地球が温暖化が起き大陸の氷が解けると、海水が増え海が陸に侵入していきます(海進と呼びます)。逆に寒冷化すると、水は氷として大陸にたまり、海水が減り、海が後退していきます(海退と呼びます)。
 海成段丘が地球の気候変動なのか、地域の大地の上下運動なのかは、同時代の他の地域の平野を調べれば判明します。
 地域的大地の変動であれば、その地の大地の歴史を解き明かすことになります。もし、海進や海退が起こったがことがわかれば、地球の気候変動を読み取ることとなります。
 関東平野は、最初に述べましたように、大地の上昇運動が起こりました。しかし、実際には、海進と海退による変化も加わっています。このような複雑な大地の営みが、相模川流域の段丘をつくってきたのです。
 座間I面は、扇状地でたまった礫岩が河川によって浸食された河成段丘です。その上の座間II面は、内湾でたまった地層で海進によってたまったものが海の作用で侵食されたものです。次の下末吉面は、海食台の堆積物と三角州の堆積物からできている地層が海の作用で侵食されたものです。この面あたりから海とは関連がなくなっていきます。海退が起きたことになります
 善行面は、扇状地の堆積物が河川の浸食によってできたものです。相模原面、中津原面、田名原面群、陽原面群は、いずれも火山灰層をたくさん含む礫岩層からなり、川の作用によってできた河成段丘です。
 また、完新世段丘面群は、もっとも海退が起こったときに相模川が運んだ川の堆積物から、だんだん海進が進み、三角州や砂州から現在の川の堆積物になっていきます。しかし、相模湾付近の平野の多く谷や段丘は埋もれています。これは、関東地方の隆起が一様ではなく、かたよっていたことを示しています。
 以上のように、関東地方では、段丘から複雑な川と海、大地の関係や、地球の気候変動まで読み取られています。そんなことに思いを馳せながら、坂道を毎日登っていました。しかし、当たり前のことですが、そんな思いを巡らせても、登りが楽になるわけではありませんでした。


★ Letter to Reader その後の転居 


・その後の転居・
その後、私の転居は海老名市から、小田原市、湯河原町へと続きました。
関東平野から箱根の麓へと西へ西へと向かって進んでいったことになります。
小田原では、酒匂川がつくった低地に住んでいました。
湯河原に至っては、箱根の火山の山麓でした。
湯河原では標高190mの火山の中腹に住んでいました。
駅は標高30mでしたから、毎日標高差160mを登り下りしていました。
これは、通勤というより登山といった方がいいかもしれません。
おかげで足腰は強くなりましたが。
こうして神奈川での11年間の生活の場を考えていくと、
関東地方の生い立ちを探るためには、うってつけの場所であったわけです。
そんなことを、離れてから考えています。
現在は、北海道の野幌丘陵に住んでいます。
箱根の箱根の関所を越えることなく、北の地に来ました。
この北の丘陵の生い立ちにも、関東平野と似たところががありますが、
それは別の機会としましょう。


の地図の作成に当っては、
国土地理院長の承認を得て、
同院発行の2万5千分の1地形図を使用したものである。
(承認番号 平15総使、第140-623号)

10mメッシュ標高データ及び解析データは
北海道地図株式会社作成の
高分解能デジタル標高データを使用した。

地図、Landsatの画像合成には
杉本智彦氏によるKashmirを使用した。


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