地球と人と
表紙に戻る

Essay■ 6_35 人と道具と
Letter■ 謹賀新年
Words ■ リアルとバーチャル。やはりリアルは切り捨てることはできない


(2004年1月1日)
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。今年は、メールマガジンの発効日である木曜日が、元日にあたりました。ですから、今年の最初の号が元日に発行というめでたい日になりました。本年も、地球のささやきに耳を傾けていきたいと思っています。


■Essay 6_35 人と道具と 

 年頭に当たって、人とコンピュータ、あるいは人と機械、道具とのあり方について少し考えてみたいと思います。
 人との道具との関係は、非常に大切だと思います。家電製品や車など、普及しているものと比べると、コンピュータなんぞは、まだまだ不便な道具だと思います。
 便利だと思われているコンピュータは、道具としてみたとき、この上もなく不便で不経済なものだと思いませんか。ハードとソフトはしょっちゅう進歩しているし、そしてどちらかを更新すると、他方も更新しなければならない。その導入にへたをすると何日も格闘しなければならないこともあります。インターネットへの接続、メールを読めるようにするのも苦労します。一つの更新であれもこれもいじらなければなりません。それでも、更新している自分がいます。これは、メーカーに踊らされている自分がそこにあるからでしょうか。でも見方を変えると、コンピュータあるいはコンピュータの周辺技術が、まだ未熟なものだからなのかもしれません。
 家電製品、たとえば洗濯機、冷蔵庫、テレビ、炊飯器、電子レンジなどは、いろいろなことができる機能をもっていたとしても、製品として、まずは簡単に目的の機能は果たせることが前提です。モダンを押せば、スイッチを入れれば、目的を果たしてくれるのです。もちろん家電製品の中には小さなコンピュータが入っているから、ボタンを押すだけでおいしい米が炊けたり、ほどほどに冷やしてくれたり、どんなものでもきれいに洗ってくれるのでしょうが。でも、ボタン一つおせば、電源を入れれば使えるということは、非常にユニバーサルな道具だといえます。
 もちろん多様な機能を使いこなそうとするならば、説明書を読んで、悪戦苦闘しなければなりません。でも、家電製品の説明書はわかりやすいものです。その装置を使うために、電気や物理の基礎知識なしにだれでもわかりやすく書かれています。家電製品は、こだわりがない限り、ある本質的な機能を買うのであって、その機能が働く限り、その道具を使い続けることが、ごく普通におこわれています。愛着とはいわないまでも、家電製品の多くは、壊れるまで使っていませんか。
 複雑な操作や技能が必要な車は、そうはいきません。車は便利ですが、道具としてだけでなく、人を傷つける凶器にもなりえます。車を使うためには、社会的にあるいは国家的に一定以上の技量を習得し、規則を覚えさせられます。車には免許が必要となります。車は、人命を脅かす存在でもあるので、たとえ免許をもっていたとしても、間違った操作をすると、運転手に対しては、罰則規定があります。
 そんな車でも、教習を受け、免許を取り、操作に習熟しさえすれば、どんな車でも、同じ操作方法で運転できます。ハンドル、ブレーキ、アクセルなどの配置、操作の基本は守られて製作されています。考えてみれば、ユニバーサルな装置であります。あの怪物のような高速の移動装置が、どれでも、だれでも、比較的簡単に使用できるような機能を持っているのです。それには、やはり長い間の努力と、ユーザーの意見、車の歴史が、最終的なヒューマンインターフェイスとして反映された結果ではないでしょうか。
 ところが、コンピュータは、ほとんど人が自己流でいろいろな操作をやります。日進月歩の進歩によって、コンピュータの能力は進歩しています。ハードウェアの能力向上に伴って、ソフトウェアの機能も向上します。そして、すぐに古いハードウェアでは使えないソフトウェアが主流になります。コンピュータも、人間が人間のために作った道具なんですから、人間中心で、つまりヒューマンインターフェースを重視したものであるべきはずなのです。
 キーボードも不便きわまりないです。たいして急いでない時はいいのですが、急いでいる時は困ります。私の場合では、書きたいことが今頭の中にあるのに、書き留められないというような苛立たしさがよく生じます。なんのことはキー入力が遅いだけなのですが、道具であるのなら、人間の能力を補ってほしいものです。どんなときにでも対応できる入力デバイスが必要だと思います。
 ディスプレイも長時間見ていると疲れます。長い文章であれば、一覧性も、全体を考えるときも、また考えながらの修正も紙の方がいいようです。デジタルのよさもわかりますが、メディアとしてすべての点で、紙の印刷媒体を越えているとは思いません。
 また、インターネットのスピードも、テレビや映画の動画を考えたら、まだまだ光ファイバーの普及は一部で、常に高速で配信できるとは限りません。私は、自宅ではBフレッツという光ファイバー回線を常時接続でインターネットを使用しています。高速なのは、早い回線が確立されている区間だけです。また、その早い回線もアクセスが増えると遅くなります。これは、通信回線の宿命です。需要と供給のバランスで、需要が増えれば供給能力も向上するでしょう。ところが、テレビは、どこでも、だれでも、いくらでも、同じ番組を見ることができます。だから、インターネットも通信手段としてはまだまだ不十分なのではないでしょうか。
 コンピュータは、道具としても、メディア、通信手段としても、まだまだ発展途上なのでしょう。このよう未完成なものですが、それなりの利点があるからこそ、皆、苦労して使っているのだと思います。
 このようにコンピュータやインターネットに疑問を投げかけている私ですが、いまやコンピュータなしには、仕事がはかどりません。研究におけるデスクワークは、大部分をコンピュータでします。各種の装置もコンピュータ制御です。連絡のほとんどはE-mailでします。学会発表の申し込みもインターネットを通じてです。論文の図表や原稿もパソコンで作成します。発表もノートパソコンのプレゼンテーションソフトでおこないます。
 こんな未熟なコンピューターやインターネットの発展に、私はいつまで付き合うのでしょうか。コンピュータの製作には多くのエネルギーが用いられます。そのくせ、まだ壊れてもいないのに、新しいものへと更新し、古いものは廃棄していきます。自分でも、心の中で、「これでいいのか」という矛盾を感じています。でも、後戻りのできないとんでもない坂道を転がりだしたような気がします。困りました。新年早々、書きながら悩んでしまいました。
 新年早々暗い話になってしまいました。でも、そろそろ自分たち自身で身の回りのことに目を向け、このような生き方、進み方がいいのかどうか、もう一度、立ち止まって考えてみることが必要な時期に来ているのではないでしょうか。


Letter 謹賀新年 

・謹賀新年・
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
1月1日にこのメールマガジンを発行するということは、
2003年の暮れに、原稿を書き、発送手続きをしているわけです。
これは、なにも珍しいことではなく、
年賀状もこのタイムラグはあります。
インターネットだから、タイムラグなく発信可能です。
でも、人間は、あるいは私は、日常というリアルの世界で、
私の母にとっては子供、
家内にとっては、夫、
子供たちにとっては父親、
学生たちにとっては、先生、
職場では教員、
などといろいろな役割を果たしながら、生きています。
ですから、どうしてもリアルとデジタルに変換するために
タイムラグが生じます。
これも不便さです。
生きている限りリアルの世界を切り捨てるわけには行きます。
バーチャルの世界がどんなに進んでこようと、
リアルの自分がリアルの世界で果たす役割が減るわけではありません。
生きているということはいろいろな役割を
リアルにこなしていくことなのでしょう。
昨年の暮れから、正月にかけて母が来ています。
ですから、正月には、私は、母にとっての子供の役に徹しています。