地球と人と
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6_29 川と人との共存

Essay :6_29 川と人との共存
Letter:衛星画像との連携・母との再会
Words :日常の中の非日常か。非日常の中の日常か


(2003年7月3日)
 「日本最後の清流」と呼ばれる四万十川ですが、四万十川は清流というだけでなく、日本の川として今では他の川であまり見かけなくなったものがあります。それは、川が人々の中で活きているということです。日本の川と人とのいい付き合い方が、ここにはあるような気がします。かつては、日本中でみられた川と人の付き合い方が、今でも残っている数少ない川ではないでしょうか。


Essay

 私は、四国には住んだことはありませんが、縁があって、四国にはたびたび出かけます。そして、四万十川も、出かけるたびにではないのですが、ときどき訪れるチャンスがありました。しかし、それはちょっと立ち寄るという程度でした。先日、四万十川だけを、じっくり眺めにでかけました。
 四万十川を源流から河口までたどってみて、いちばん感じたのは、激しく蛇行している川だなということです。まるで、大陸を流れる大河の小型版を見ているような気がしました。四万十川は、四国山地を源流としていますので、上流の川は急流ですが、少し下ると、もう穏やか流れとなり、蛇行をはじめます。そして、いったん海に8kmまで近づくのですが、まだまだ長い流れを経た後、やっと海へと注ぎます。
 四万十川の川原の石や砂を調べながら下っていくと、不思議なことに気づきました。川原をみると、石ころは一杯あるのですが、砂が非常に少ないのです。もちろん皆無ではありませんが、探して採集しようとするとなかなか見つかりません。
 なぜでしょうか。多分、2つの原因による蛇行によって流域面積の狭さためではないでしょうか。
 川が蛇行をしているのは、傾斜の緩やかな平野や平らなところを流れるためです。蛇行をするようなところでは、川の作用として削剥や運搬より、堆積の作用が働くところです。ですから、砂のような堆積物がたくさんたまっていいはずです。
 ところが、四万十川の場合、四国山地の奥深くを急流として流れる面積が少ないのです。つまり、削剥をうけ、砂を供給する面積が少ないということです。さらに、四万十川は、それほど広い地域から水を集めているわけではないのです。四万十川の流域面積は2270平方kmで、流路(幹線流路延長)は196kmです。流路に対して流域面積は12km2/kmとなり、日本の大型河川でも、もっとも小さいものとなっています。
 川の長さに比べて、流域面積が小さいということは、砂を集め、つくるための面積が少ないことになります。蛇行が激しいと、川が運搬の過程で石を砕くという作用も、それほど強くないことを意味しています。ですから、石ころだけで、砂だけが少ない川となるのでしょう。
 もちろん洪水があれば、激しい削剥、運搬の作用が働きます。でも、その洪水が収まると、小さく軽い砂は運ばれ続けますが、大きく重い石ころは川原に残るのです。このような原因によって、四万十川には砂があまり見当たらないのでないでしょうか。
 四万十川で、このようなことがわかるのも、川が本来もっている特徴をよく残しているからです。それは、四万十川がもっている蛇行が、人によって矯正されることなく、大型のダムもなく、ありのままの姿で流れているからです。もちろん、護岸をされているところや、堰も、生活廃水がそのまま流されているところもあります。ビニールやビンなどのごみもみかけます。ですから、まったく自然のままの川の姿というものではなく、人手が加わっています。
 ごみをみて自然じゃないというの早計です。人の生活の痕跡は、人がその地で暮らすとき、きっと残るものです。里山や雑木林も同じようなものでしょう。人がその地で生きるということは、自然から恵を得るということです。自然は恵みだけでなく、災いももたらします。もちろん、災いはありがたくないものですから、人は災いを避ける努力をしてきましたし、これからもしていくでしょう。
 それを、どこまで、どの程度おこなうか、どのような視点で考えておこなうかが問題ではないでしょうか。例えば、川をまっすぐに矯正すること、護岸をすることで得られるメリットとデメリットを、慎重に考えることが必要だと思います。
 もちろん、そのような対策をすれば、当面の災いをそれで取り除けるでしょう。でも、長い時間、数10年や数100年のスケールで考えて処理すべきではないでしょうか。いちどいじった自然を元に戻ることほど、ばかげたことはありません。それに、多くの河川や海岸線でそのような矯正の実例は、一杯あります。そこから学ぶべきでしょう。
 長い時間を視点にした川との付き合い方を忘れてはいけないような気がします。これこそ今よくいわれる持続可能性だと思います。そんな長い時間をかけた川との付き合いは、じつは何100年にもわたって私たちの祖先はやってきました。もちろん治水もやってきました。でも、過去の治水は、四万十川でみたような、人がそこで川を最大限に利用して生活できる程度のものであったはずです。祖先たちは、川の本来の姿を残したままの付き合い方をしてきたのです。
 智恵ある生物、人として、同じ失敗をしないだけの智恵、うまい付き合いの方法を忘れないだけの智恵を持ちたいものです。


Letter 衛星画像との連携・母との再会

・衛星画像との連携・
今回のエッセイは、月一度の衛星画像との連携したものです。
四万十川の衛星画像や地上で私がとった写真を公開しています。
アドレスは、
http://www.ersdac.or.jp/Others/geoessay_htm/index_geoessay_j.htm
です。
興味のある方は覗いてください。
そのうち、この内容を独立したものとして、
別のメールマガジンにしようかなどと考えていますが、
まだまだ先になりそうです。

・母との再会・
先日、母が我が家に、1週間やってきました。
4月に私たちが母の家に帰って会っています。
母は京都で一人暮らしをしています。
でも弟が近くに住んでおり、いくいくは同居する予定ですので、安心です。
現在、母は、趣味としての野菜つくりをしています。
もともと農家なので、田畑があるのですが、商品作物はつくっていません。
でも、健康のためにいいので、畑に出ることを私もすすめています。
母は、私の家に来れば、孫の顔も見れるので喜んでいるのですが、
母はこちら来るのはなかなか腰が重く、呼ぶのに苦労します。
でも、1年に一度くらいは、気候のいい時に呼んでいます。
今年の6月の北海道は、寒いくらいで、
母がいるので、ストーブをつけた日があったくらいです。
私も驚きですが、母はもっと驚いたことでしょう。
でも、なんでもかんでも、母にとっては思い出話として
もって帰ってもらえればいいのです。
一人の気軽さ、寂しさ。それに対して、家族の煩わしさ、賑やかさ。
母は、これを一人で、一気に味わったとおもいます。
離れた家族とは、同居家族と比べ、起伏の激しい付き合いが起こります。
それらすべてが、母のお土産でしょう。
日常の付き合いのある人びとに、その非日常のお土産話をするのでしょう。
でも、再会のうれしさ、別れの悲しさは語られることはないでしょう。
これは、出会い別れたものだけが噛みしめるものだからです。
私も別れの寂しさを味わっています。
あと何度このような出会いをつくれるのでしょう。
会うたび老いて見える母を見るにつけ思います。
多分、母の思いも同じでしょう。
でも、これが離れて暮らす家族の宿命です。
今、母が帰った寂しさを味わっています。

・衛星画像の威力・
カルストの表面の状態を、衛星画像ではみています。
もし、そこが植物に覆われていたら、
植物のスペクトルのみが協調されて、
カルストをつくる石灰岩の特徴が
衛星が画像からは読み取れません。
でも、今回の石林の地域を、
衛星画像とASTERから得られた標高データを加えて、
鳥瞰図として加工すると、
なんと、すばらしいカルスト地形が見えてきます。
つまり、表層の状況だけではわからなくても、
地形としての特徴を見ることによって、
カルストがよくわかるようになったのです。
今回の石林の衛星画像では、
リモートセンシングの威力をまざまざの見せ付けられました。
ぜひ、ホームページの鳥瞰図を見てください。
感動しますよ。