地球と人と
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6_4 保護:ヒトが守るとは


ヒトが守るべき?

2000年12月23日)
 続いて、ヒトと自然保護について考えましょう。ヒトが守るべき生き物、自然、地球。いつからそのような考えができてたのでしょうか。ヒトはいつから他の生き物にを守るなどという優位を持つようになったのでしょうか。それは、他の生き物、自然、地球は望んでいることなのでしょうか。実は、ヒトが望んでいるのではないでしょうか。


 人類を守るためには他の動物を犠牲にして良いのでしょうか。人間が動物と共存していた時は、他の動物を犠牲にして生きていくことに問題はありませんでした。それが、人類という生物種の生き方だったのです。強いものが勝つという原理、弱肉強食、が自然の中ではありました。それは、食べるためでした。あるいは、欲しいものを手に入れるという純粋に欲望という名のもとにおこなわれる営みでした。
 文明や貨幣経済の訪れとともに、必要以上のものをとったり、集めたりしだしました。しかし、地球や自然から考えてみれば、社会性を営む科学技術を使う新たな生物種が1つ生まれたに過ぎないのかもしれません。何も考えず、地球や自然から搾取するだけであれば、何も地球や自然に反した行為ではなかったのです。
 ところが、この行為に対して疑問持った時点から、人類は、地球や自然と相対するものとなったのです。あるいは考慮すべき一番重要なものとして、地球や自然が生まれたのでした。
 野生生物保護や地球環境保護も、その免罪符的行為として生まれてきました。野生動物の保護の例をとりましょう。人類は「思いやり」の精神から、絶滅危惧種を守るために、彼らが生活しやすい環境を整えたり、守ろうとしてきました。時には、絶滅危惧の生物を守るために、天敵を人為的になくしたり、食料になる生物を持ってきたりしました。トキを守るためにどれほどの犠牲が払われたのでしょうか。片や、絶滅危惧生物であってもヒトに被害を与える猛獣や害獣は容赦なく殺されました。これはヒトのエゴイズムといわずして何というのでしょうか。ヒトは、絶滅危惧の生物を守るために、他の多くの命を犠牲にしてきました。希少価値があれば、他の多くて価値の低いものは犠牲になるのです。動物に対する牧畜や植物に対する農業の裏返しが、絶滅危惧生物の保護ではないでしょうか。ここに、まさに現代社会の構図が見え隠れしてきます。つまり、人間の営みは資本主義的なものなのかもしれません。
 今盛んにおこなわれている保護の影には、このような殺戮が、「正義」や「保護」の名のもとにおこなわれています。「命」という総体に対して、非常に失礼なことをしていないでしょうか。
 人類が自分が食べるため、あるいは人類全体のエゴを全面に出していれば、このような殺戮は必要悪でまだ救われる気がします。つまり、牧畜や農業はまだ救いがあると思います。それは、元をたどれば、人類が食うためにやっていることです。でも、正義や保護の名のもとにおこなわれる行為は、一歩間違えば神をも恐れぬ残虐非道の行為ということになります。
 自然が変わって困るのは、人類自身なのです。今まで地球や自然からの恵みを一方的に享受してきた人類が、地球や自然に限りがることに気付いたのです。そして、一方的な搾取には限度があるということに気付いたのです。
 21世紀を目前にして、「21世紀に残したいもの」、「21せいという世紀とは」、あるいは「20世紀を振り返って」などの回顧がおこなわれます。たのえば「21世紀に残したいもの」などは、いくつかの語句が欠落しています。「私たち人類」が、「自分たちの種の後継者」に対して21世紀「残したいもの」という意味ではないでしょうか。
 人類があろうとなかろうと、地球や自然は残ります。それは、生命の大絶滅があっても地球や自然は残ってきたことが証明しています。
 地球環境問題といっていますが、実際は人類にとっての問題です。人類が地球を守ろうとかをうんぬんかんぬんするのは、地球を研究するものの目からすると、非常に不遜な考えだと思います。人類があろうがなかろうが、地球が存在しつづけます。「21世紀に残したいもの」の本当のところは、人類が自分たちの種にとって、住みよい環境でありつづけて欲しいというエゴを、オブラートに包んで表現したものではないでしょうか。最近の環境問題はそこのところが曖昧にされた奇麗ごとだけで、語られています。もう少し根本に帰って考えてみる必要があるのではないでしょうか。