地球の調べ方
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Essay■ 5_122 ロゼッタ 2:困難
Letter■ はやぶさの陰で・大田原
Words ■ 困難に立ち向かい打ち勝つことが大切


(2015.01.08)
 ロゼッタは、彗星を探査するために、長い道のりを踏破し、彗星を周回し、装置を着陸させました。現在も観察を続けるという困難な道を進んでいます。動的な調査行動はほぼ終わりました。後はデータをとり続けることになります。しかし、そこまでには幾多の困難がありました。


Essay■ 5_122 ロゼッタ 2:困難

 彗星探査衛星「ロゼッタ」は、当初の予定通り進んだわけではありませんでした。彗星ににたどり着くまで、いくつもの大きな困難がありました。その困難は、不可抗力によるものも多数ありました。そのいくつかを紹介しましょう。
 「ロゼッタ」による彗星探査の計画は、もともとESA(欧州宇宙機関、European Space Agency)とNASAが共同で、スタートしたものでした。ところが、1992年にNASAが計画から離脱して、ESAが単独で遂行しなければならくなりました。技術、人材、資金に大きな変更を余儀なくされました。
 次なる困難は、2003年1月12日の打ち上げが、2004年3月2日に延期になりました。その理由は、ロゼッタを打ち上げるためのアリアン・ロケットが、2002年12月11日に爆発事故が起こりました。その直後に予定されていたロゼッタの打ち上げは、当然ながら延期になりました。
 打ち上げ延期にともない、探査予定であった彗星にたどり着くことができなくなりました。当初予定されていたのは、2006年7月に小惑星の大田原(4979、Otawara)に近づき、2008年7月にシワ(140、Siwa)に接近したのち、2011年に目的の彗星ワータネン(46P、Wirtanen)へ到達し、探査するはずでした。ところが、打ち上げの予定が変更したので、そのコースをとることはできなくなりました。次なる目標の彗星を、急遽、決める必要がありました。その結果選ばれたのが、チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星(67P、Churyumov-Gerasimenko)でした。
 ただし、そこには、大きな問題がありました。たどり着くのには、当初mp計画よりずっと長い時間がかかることです。当初到着までの8年ほどの予定でしたが、新しい目的地にまで、10年ほどのかかることになりました。
 その間に、スイングバイを何度もおこないました。スイングバイとは、自分のエネルギーを使うことなく、天体の引力を利用して、加速と方向転換をするものです。2005年3月4日、地球でのスイングバイ、2007年2月25日、火星でスイングバイ、2007年11月13日に地球で2度目のスイングバイ、2009年11月に地球で3度目のスイングバイをしました。綿密な計算と、その通りに進む技術があったからこそです。
 彗星は太陽から遠く離れた木星軌道付近にありました。そのため、ソーラーパネルの発電量が足りなくなるので、冬眠モードに入らなければなりませんでした。冬眠モードとは、必要不可欠な装置以外は、すべて電源を落とすことにです。宇宙空間で電源を落とすということは、非常に冷たい状態、宇宙線にさらされる状態に置くことになります。その装置を再度立ち上げたときに、復帰できない危険性が高くなります。
 そして、2014年1月20日、冬眠モードを解除して、復帰を果たしました。
 このようにロゼッタは、さまざまな困難を乗り越えて、目的の彗星チュリュモフ・ゲラシメンコにたどりついたのです。しかし、そこでもまだ困難が待ち受けていました。次回としましょう。


Letter to Reader■ はやぶさの陰で・大田原 

・はやぶさの陰で・
ロゼッタの当初の打ち上げ予定は、
2003年1月12日でした。
はやぶさ1号は、2003年5月9日でした。
似た時期に彗星や小惑星への長期におよぶ探査でした。
しかし、はやぶさがはやく成果を挙げて、
多いな歓声とともい帰還し、
サンプルも公開され、
はやぶさ2も打ち上げられました。
ロゼッタは、日本では、はやぶさの陰に
常に隠されてしまったようです。

・大田原・
小惑星(Otawara、4979)は、1949年8月2日に、
ドイツの天文学者のラインムス(K. Reinmuth)が
ハイデルベルグのケーニッヒシュトゥール天文台で発見したものです。
日本の写真家の大田原 明(おおたわら あきら)さんを讃えて
命名された小惑星です。
ドイツ人が日本人の写真家を讃えたのです。
大田原さんは、野外星図2000、恒星惑星カタログ2000の出版に
協力したアマチュア天文家で写真家でもありました。
天文学に大きな貢献があったようです。


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