地球地学紀行

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Essay ■ 4_60 十勝岳
Letter■ 富良野・芦別
Words ■ 北海道も暑いです


(2005.08.11)
 7月下旬の夏休み前の連休に十勝岳にいって来ました。調査が目的なのはもちろんですが、観光もしてきました。今回は十勝岳の周辺の火山について紹介していきましょう。


■Essay 4_60 十勝岳

 北海道の中央部には、南北に50km以上にわたってのびる火山の列があります。北の大雪山から南の十勝岳までに多数の火山から構成されてる列です。この火山列の南側は、十勝火山群と呼ばれ、北東から南西にかけて延びる前富良野岳、富良野岳、上ホロカメトック山、十勝岳、美瑛岳、オプタテシケ山があり、その列と交差するように南東側に、下ホロカメトック山や大麓山などがあります。いずれも、1500mの越える標高の火山で、中でも2077mの十勝岳が主峰ともいうべき山となっています。
 十勝火山群は、50万年前から現在まで、繰り返し活動をしていきた成層火山群です。北海道でも有数の活火山で、何度も噴火が起こっています。北海道の中央部には、十勝岳火山群の火山噴出物が広く積もっています。
 十勝岳火山群の活動は詳しく解明されています。活動は、古期、中期、新期の3つに区分されています。歴史時代でも活動は続いていて、1857年、1887年、1836年、1962年、1988-89年の火山活動の記録があり、現在も噴気が上がっています。
 中でも1926年の噴火は大きな被害を出しました。1926年2月から小規模な噴火を繰り返していていたのですが、5月24日正午過ぎ、中央火口丘の北西部から水蒸気爆発が起こり、小規模な泥流が発生しました。泥流は6kmほど下の白金温泉まで流れ下りました。午後2時にも小規模な噴火があり、午後4時18分に大規模な水蒸気爆発が起こりました。この噴火により熱い岩屑なだれが形成されて、積雪が融けて、大規模な泥流が発生しました。噴火の1分後には2.4km離れた硫黄鉱山事務所を襲い、24分後には25km離れた上富良野や美瑛町を襲いました。死者・行方不明者144名、負傷者約200名におよぶ大災害となりました。この噴火によって北西に開いたU字型の火口(450×300m)が形成されました。
 その後も噴火を繰りかえし、9月には行方不明者2名を出す噴火があり、大正火口ができました。1928年12月にようやく一連の噴火がおさまりました。
 十勝火山群は、現在も小規模な火山活動が続いています。1998年、2000年にはやや活動が活発化しました。その後も毎年のように小規模な火山活動が繰り返されています。
 私が行った7月下旬は、北海道にしては蒸し暑い天気でした。しかし、標高が1000m以上にもなるとさすがに涼しくなります。7月下旬ですが、まだ日陰には残雪が残っていました。残雪の向こうには十勝岳の噴煙が見えました。そして私の足元には高山植物が花盛りでした。
 私には、この火山の噴煙と高山植物が、どうも落ち着かない取り合わせに感じられました。なぜかはわかりません。高山植物の艶(あで)やかさと噴煙の禍々(まがまが)しさが、どうも相容れないものに感じました。植物はたくましく生きている生命の営みです。噴火は大地の営みです。大地の営みのもとで、生命の営みがなされます。ですから、艶やかさの背景の儚(はかな)さを感じてしまうのかもしれません。
 バスで訪れた観光客も、噴煙と高山植物を眺めていました。さて彼らには噴煙と高山植物はどうのように映ったのでしょうか。



■Letter to Reader 富良野・芦別

・富良野・
北海道の中央には、テレビドラマで有名になった富良野があります。
私はテレビドラマで有名になる前に、
調査で富良野に何度かきていました。
もう20数年も前のことです。
そのころの富良野は、スキーのワールドカップが開催されたスキー場があり、
ウィンタースポーツの地として、ニセコとともに有名でした。
夏は、ただ静かな田園風景が広がる地域でした。
そんな印象があるので、富良野の東部にある十勝岳の調査のついでに、
今回も静かな富良野の田園風景を見るつもりでいました。
ところがどうでしょうか。
富良野に向かう道がかなり混んでいました。
これは、このままいくと大変だという気がして、
人気のないところへ、逃れました。
確かに穏やかな田園風景、そして瀟洒な店は観光客を誘うに十分です。
その道は北海道とは思えない車の列となっていました。
でもこれも北海道なのでしょうね。

・芦別・
富良野の混雑を避けて行ったのは芦別でした。
そちらはもとは鉱山町でしたが、
現在では炭鉱はおこなわれていません。
今では、大きな観光宿泊施設があり、
観光に力を注いでいるようです。
今回紹介した調査とは別に、
7月下旬から8月頭に3日間、私は芦別に行きました。
星槎大学という通信制の大学が芦別にあり、
その大学の主催のシンポジウムがあったのと
私が参加している研究会の集まりがあったからです。
そのときに市長や地元のもと炭鉱マンとも話をする機会がありました。
いずれもなかなか面白い話が聞けました。
多くの経験をしている人は面白ですね。
私もそんな人間になりたいと思っています。