地球地学紀行
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Essay ■ 4_35 城川再び:夏の黒瀬川1
Letter■ 台風・城川再訪・心の故郷
Words ■ 人と自然の共生はむつかしい

(2003年8月14日)
 今年(2003年)の5月のゴールデンウィークに、四国の愛媛県東宇和郡城川町を訪れました。そして、8月3日から8日まで、5泊6日で再び、城川町に滞在しました。再訪した城川で感じたことです。


■Essay

 泊まっていた宿泊施設で、地元のおじいさんと話す機会が毎朝、何度かありました。そして、城川の今と昔を話を聞きました。そこで聞いた話を紹介しましょう。
 四国の松山空港についたとき、冷房の効いたロビーから外に出ると、熱く湿気のある空気が体を包み、一気に汗が吹き出しました。本州では、長かった梅雨のあけて、夏らしい暑い日がはじまっていました。
 愛媛県東宇和郡城川町に滞在中に、夕立がありました。激しい夕立、まさに「篠突く雨」というべきものが、1時間ほど降りました。そのとき私は、山のかなり上流にある地質館という建物の中にいました。すると、地質館のすぐわきの川は増水し、轟々と音を立てて、茶色くにごった水が流れていました。こんな集中豪雨と増水は、天候によってどこでもおこることです。ところが午後2時ころあった夕立が、夕方には川の水量もだいぶおさまり、濁りも取れたきました。さすがに、山をしっかりと守っている町だから、山も保水力や浄化作用があって、いいなと思っていました。
 こんな状態になるのにも、紆余曲折があったようです。古老の話を聞くと、戦後は、木が必要でいっぱい切ったそうです。切ったあとの山の斜面は、段々畑にして、食料を作っていた時期があったそうです。そのころは、山に保水力がなく、年に3度も4度も増水があり、川筋はそのたびに洗われて、石ころの荒れた川原だったそうです。ですから、葦なんかはえず、広い河原があったそうです。草刈などの川の手入れがあまりいらなかったそうです。
 ところが、いまでは、山に木が植えられ、しっかりした森ができると、洪水がなくなり、河原は葦がびっしりはえるようになったそうです。少々の洪水では、根のはる葦は流されず、河原が葦林になってきたそうです。葦の生えた狭い河原は、手入れをしないと、近づきがたいものです。山と川、植物、人間活動。これらは密接な関係を持っているようです。
 食糧難がおわると、国の政策もあり、荒廃した山を建て直すために、植林をしたそうです。でも少し前までは、間伐材も充分商品となったので、山や木を守ることができたそうです。ところが最近では、30年以上たった太い木でも、手間賃、搬送コストのほうが、木の売れる金額より高くなるようです。これでは、林業では食っていけません。
 日本では、けっして木の需要が減っているわけではありません。未だに木の住宅は建てられ続けています。しかし、その木の大半は、外国の木で、安く輸入しているものです。この状態が続く限り、日本の林業が廃れていきます。
 でも、今、木を切っている外国の森も、戦後の日本が経験したことと同じことがおこっているのかもしれません。日本のように、植えさえすれば木が成長するところは、切っても復元できます。日本が輸入している木材が、熱帯雨林の木やタイガの針葉樹などがたくさん含まれているとすると、その再生は容易ではありません。すごく長い年月が必要かもしれません。あるいは、二度と復元できないかもしれません。
 私たちは、経済性だけを中心して、生活しているようです。いつのころからお金中心の生活をするようになったのでしょうか。安ければいい。もうかればいい。多くの人は、それを世の中の仕組みと思っています。でも、森を守ろう、30年しか持たない家より100年も200年ももち、子孫がそこに住み続けられる家を建てるべきではないでしょうか。
 林業も重要な産業としていた城川も、もはや山の維持がなかなか難しくなってきたようです。そんな夕立でにごった川を見て、こんなことを考えしまいました。



■Letter to Reader 台風・城川再訪・心の故郷

・台風・
私が城川町から発つ日、台風10号が四国に接近していました。
昼前の東京行きに乗ったのですが、ぎりぎり飛んでくれました。
午後の便はすべて欠航でした。
この台風は、大きな被害を与えました。
北海道でも多くの犠牲者を出しました。
城川町でも、2名の行方不明者を出したことをニュースを見て驚きました。
これは、城川町の人たちは大変だろうなと心配していたのですが、
さらに驚いたことに、
そのひとりは、私の友人の同級生だったそうです。
なんとか彼の遺体は発見されたました。
それがせめてもの救いです。
御冥福をお祈りします。
北海道に住んで感じることですが、
関東を台風が過ぎたり、それたりすると、報道の量が一気に減ります。
需要と供給を考えると仕方ないことですが、
地元の放送局でもその報道量は極端に減ります。
NHKの四国接近の時はずーっと報道してました。
しかし、北海道では、被害のみがニュースになり、
その被害を防止す効果を持つ、報道が少なくなっていました。
なんとなく残念な気がしました。

・城川再訪・
私が今回来たのは、城川町の地質館のデータベースをつくるためです。
私の他に、博物館から4名がその要員として、作業をしました。
城川の地質館にある全資料の撮影とそのラベルや解説のデータベース。
城川町内の地質の観察ポイントの資料採集と撮影、解説のデータベース。
城川町とその周辺からとれる化石とその解説のデータベース。
これらを城川町のホームページに置いて公開することが目的でした。
これを完成させて帰ろうというのが目標でした。
私は、そのほかに、城川と神奈川の地学クラブの子供たちの交流行事をします。
交流事業は、4日午後の学習会と5日一日の地質の野外観察会でした。
このような交流も、もう4回目となりました。
着実に成果は上がっていると思います。
そして子供たちもそれなりの成長をしてくれていることでしょう。

・心の故郷・
城川滞在中に、激しい夕立が2日続けてありました。
2度目の夕立のときは、私たちは佐田岬半島にいたため、
雨にもあわず、暑い思いをしていました。
その日、城川でバーベキューをしました。
その夜は、一雨のおかげで夜は涼しくなっていました。
やはり、私は田舎は好きです。
もちろん、そこを訪れた、季節のせいかもしません。
でも、あるとき、あるところを訪れたとき、
その地のよさは、訪れた時期、気候、天候、精神状態、肉体状態など
すべての条件を寄せ集めて、それをどう感じたかということです。
それが、すべて合計してプラスになれば、その地はいいところとなるはずです。
私にとって城川は、何度も訪れているところです。
そのようなたびたび訪れている地では、
たぶん本質的なところ、風土というべきもでしょうか、
そこが好きかどうかになっているのでしょう。
私とって、城川は、好きなところです。
心の故郷、あるいは第二の田舎となっていきそうです。