地球地学紀行
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4_28 湧水:厳冬の道南1

(2003年3月20日)
 2002年12月下旬に、家族で北海道の南部のほうを見て回りました。そのとき、羊蹄山(ようていざん)の麓を回りました。そして、いくつもの湧水があるのをみました。湧水とは、湧(わ)き水のことです。湧水について紹介していきましょう。


Essay

 今回訪れた羊蹄山(ようていざん)の周辺も、名水で有名な湧水があります。羊蹄山は、別名、蝦夷(えぞ)富士とも呼ばれています。すぐ西側には、スキーで有名なニセコがあります。羊蹄山は、2万5000年前から6000年前くらいまで活動した、成層火山です。
 北海道は、本州同様、数々の火山があります。そして、火山があれば、温泉があります。火山というと、観光と温泉を思い浮かべますが、大きな火山の周辺では、湧水も、じつは名物となっています。羊蹄山周辺にも湧水はたくさんあるのですが、富士山、箱根、阿蘇、大山などの大きな火山周辺では、湧水、名水の産地でもあります。
 羊蹄山には、北東山麓にある京極町の「羊蹄のふきだし湧水」や南の山麓にもいくつもの湧水があります。富士山には忍野八海(おしのはっかい)や柿田湧水、箱根では足柄平野の各地の湧水(富水、蛍田などという地名がある)、阿蘇山には白川や産山村(うぶやまむら)の池山水源、大山には蒜山(ひるぜん)など、名だたる湧水地があります。
 もちろん、火山にだけに湧水があるわけでありませんが、大きな火山には、どうも湧水ができる仕組みがあるようです。なぜ、大きな火山の周辺には、湧水地があるのでしょうか。
 湧水とは、地下水が、湧きだしているところです。地下水とは、広義には、地面より下にある水すべてを意味し、狭義では、地中で大気圧以上の圧力をもち、地表へ自然にしみ出す水のことです。狭義のものには、井戸やトンネルで出る水や、泉となって出てくる水のことです。
 地下水のもととなる水は、マグマに含まれていた水(処女水といいます)と、雨水や、地層の間にあった水などがありますが、大部分は、雨水に由来するものす。
 泥や粘土などの水を通さない不透水層があり、その上に粒のあらい砂利などの水をためやすい帯水層があれば、そこに地下水がたまります。ですから、雨水がたくさんあるところは、地下水が豊富にあり、地下水が効率的に集まる不透水層と帯水層があるところに湧水ができます。
 成層火山は、このような仕組みを満たしていることになります。成層火山などの大きな火山は、雲がかかり雨が降りやすく、標高が高く雪が降りやすい地形となっています。また、たくさん降った雨や雪は、地下にしみこんで地下水になります。地下水は、火山そのものをつくる溶岩、火山砕屑物、火山灰の中にしみこんでいきます。粒の細かい火山灰が不透水層となり、そのうえの溶岩や粒の粗い火山砕屑物が帯水層となっています。ですから、大きな火山の麓には、湧水があるのです。



Letter to Reader 名水・多様性と信仰

・名水(ライブです)・
名水というのは、魔力的な魅力があるのでしょうか。
それとも、本当においしいのでしょうか。
そんなことを考えてしまいました。

今回訪れた「羊蹄のふきだし湧水」は、
環境庁(現在、環境省)の名水百選にも選ばれています。
観光バスが多数とまって、外国からも、観光客がたくさん来ていました。
また、大きなポロタンクをソリに何個も載せ、
水を汲みに来る人がいるのにも驚かされました。

今回訪れたときは、公園の歩道や水源の中を補修していました。
工事中の中にもかかわらず、多くの人が水を汲んでいました。
そして、私も、500mlのペットボトル1本に試しに水を汲みました。
しかし、よく見ると、工事の看板に、
「工事中につき、1時間ほど水汲みはやめてください」
とありました。
確かに、水源のなかに、人が入って作業をしていました。
それでも気にせずに、そのすぐ下流で水を汲んでいるのです。
汲んだ水をみましたが、確かに、にごりもなく澄んでいました。
試しに、一口、飲みましたが、まずくはありませんでしたが、
あまりいい気分がしませんでした。
多くの人は、そんなことを気にせずに、
汲んでもって帰り、飲んでいるようです。

これぞ、名水の魔力と思いました。
明日は、別の湧水を飲んでみましょう。

・多様性と信仰・
前回のメールに続いて、父の死から宗教について
Nanさんとの議論が展開しています。
Nanさんの「科学と信仰」という考え方に対して、
私は、以下のメールを送りました。
やはり長くなりますが、掲載します。

「こんにちは。メールありがとうございました。
「無神論も神がいないというひとつの信仰」という考えは、いいと思います。
たぶん、人は何か信じて、あるいは何かを拠り所として生きているはずです。
人によっては、それがはっきりと見えている人、あるいは見えていない人、
あるいは考えたこともない人など、いろいろだと思います。

そして信じるとしても、その信じるものや拠り所が、何かは、
人それぞれであっていいわけです。
ある人は仏教という宗教であり、ある人はキリスト教という宗教であり、
ある人はイスラム教という宗教であり、ある人はヒンズー教という宗教であり、
ある人は論理という科学であっていいわけです。

西洋では、無神論(atheism)は、非常に強い意味を持っているといいます。
無神論者は、神の存在を積極的に否定して、
有神論者に激しい議論を挑んだりするようです。
ですから私は不可知論者(agnostic)ということにしています。
無神論者とは、有神論者を否定するぞ、
という強いニュアンスがあるようです。
不可知論者であれば、神の存在の問題には、多くの哲学的議論、
長い議論の歴史が背景にあり、そのような歴史を考えると、
人間のような存在には現在ところ
科学的に認識できないものであるという
非常に配慮深い立場だそうです。

西洋では、神の存在を証明するために、多くの宗教家、
哲学者や論理学者が挑んできました。
数理論理学者としてアリストテレス以来の天才といわれゲーデルが
論理学的に証明しようとしたのですが、うまくいっていません。
ですから、科学的に今のところ神の存在証明はできていません。
ここまでは、事実です。

存在が証明でないから信じないという人もいるかもしません。
あるいは存在が証明できなくても、
否定されなければ信じるという人もいるかもしれません。
このような立場は、UFOやET、超常現象、占星術、
占いを信じるかという問いにも、
合い通じるところがあるかもしれません。

たとえ、存在が否定されても、信じるという立場があってもいいはずです。
そして、その存在は否定されたとしても、信じることを否定はできないのです。
これは、個人の領域、個人の心の問題だからです。

もし、ある科学者が、論理を前面に出して、
論理的でないものは信じないという人がいても、
案外、そんな科学者も常識という
論理的証拠がないものに頼って日常生活しています。
となると、すべてをがちがちに自分自身の信仰や主張だけで、
生き方すべてを制限すること、つまり多様性を否定することは、
自分自身の首を絞めることにもなってしまいます。
ほどほどがいいのかもしれません。
でも、真の信仰者として真摯に生きることを、
私は、否定するものではありません。

多くの日本人は、多宗教です。
それも真剣に信仰してない人が多いと思います。
日本人は、クリスマスにケーキを食べ、
お寺の除夜の鐘を聞き、初詣にいきます。
生まれた時は、神社にお宮参りをし、
結婚式を教会であげ、葬式をお寺でやります。
それに疑問を感じないのです。
そんな民族なのだと思います。

でも、そんな人びとを私は否定しません。
また、肯定して生きていきたいとも思いません。
自分ひとりであれば、自分のやり方でやり通せるのですが、
家族や親戚がいると、それを説得してまで、
自分のやり方をおこなう気はありません。
それは、他者の信仰を否定することになりますし、
言い換えれば、自分自身の信念を聞いてもらう土壌をなくすことにもなります。

こんな生き方は優柔不断という見方もあるかもしれませんが、
これこそが、私がたどりついた、自分の等身大の心のありようだったのです。
つまりは、極当たり前の日本人として振舞ってしまうのです。
こんなことを考え、そしてできるようになったのも、
もしかすると、父の宿題、
そして家族の無言が意見のせいかもしれません。」